推理作家のある修羅場 鈍い痛みを感じて、はっと目を覚ました。 どうやら意識を飛ばしていたらしい。 腕がちりちりと痛む。見ると、仰向けになって、腹の辺りに乗せた腕にばらばらと本やらコピー用紙やらが落ちていた。隣では積み上げていた資料の本や雑誌の山が崩れている。推察すると、身じろぎをした際にその山に触れ、自分の上に落ちてきてしまった、というところだろう。痛みの正体は打撲ではなく、コピー用紙で皮膚が薄く切れたせいだとわかった。 ふと時計を見ようと体を起こすと、もう一つの山が崩れた。畜生。私はため息をついてそれらを乱暴に脇へ寄せると、時計を見る前に近くの携帯電話を手に取る。ディスプレイに表示された六時半という数字に、私はほっとして、今度は安堵のため息をついた。どうやら予期せぬ休憩は一時間に留まったようだ。 携帯を机に戻そうとすると、携帯が震えた。電話だ。慌てて「も、もしもし」と出ると、『俺だ』という声が帰ってきた。――なんだ、火村か。 『今仕事で大阪に来てるんだが、今からそっちに行ってもいいか?』 「それは、泊まる、っちゅーことやな」 『ああ』 私は思わず、修羅場真っ最中の自分の部屋を見渡した。ソファは資料やら気分転換に読み散らかした本やらで埋まっていて、とても火村が寝るような場所はない。 しかし、どうせ今日は自分がベッドに辿り着くことはないだろう。そう判断する。 「ええよ」 『なんか、妙な間があったな。本当に大丈夫なのか?』 「別に、断ったら君が可哀想や、なんて思ってるわけやないから安心せえ。……しかし、そういうことは前もって言っておくべきやないか」 火村は電話越しに小さくため息をつく。どうやらあっちはあっちで大変らしい。 『本当は今日のうちに京都に帰る予定だったんだが、急に事情が変わったんだよ。……仕事中だったか? 悪いな』 「ええ、ええ、そんなことは。どうせ休憩中も同然やったし」 望まない休憩ではあったが、かと言って仕事をしていたのかと問われれば素直に頷けない。 「で、何時頃に着くんや」 『あと三十分くらいかな』 「せやったら、コーヒーでも淹れて待っとるわ」 『それはありがたい。でも仕事しろよ、先生』 笑いを含んだ声にそれを言われて、いつもなら軽口で返すところなのだがあまりにその言葉が今の自分に突き刺さったのでそんな元気もなくなってしまった。かろうじて「そうやな」とだけ言うと、「三十分後に」と言って通話を切る。 有言実行しようとコーヒーを淹れるために重い体を持ち上げる。しかし、部屋がひどい散らかりようだ。足の踏み場もない。普段はそんなことはないのだが、パソコンの前から動かないぞと意志を固めて昨夜から寝ずに書いているせいか、どうしても片づけようという気が起きない。 雑誌には資料となるページに付箋を貼っているのだが、その付箋が落ちていたりする。しかも、それはページから取れた付箋なのかただ付ける時に落ちたものなのかも判然としない。 火村に嫌味の一つでも言われるだろうな、と思いながらも私はコーヒーを淹れた。リラックスするには紅茶がいいかも知れないが、今はブラックコーヒーが飲みたい気分だった。それに火村はコーヒー党である。 火村は七時五分にやってきた。 そして、予想通り、私の部屋の状況を見てしばし唖然として言葉を失っているようであった。そしてようやく発した言葉が、「なんだこりゃ?」だ。 「今までに見たうちの最高級の汚さだぜ」 「君の研究室だって似たようなもんやないか」 と、反論を試みるも、「一応まとめる努力はしている」と切り替えされた。それはつまり、今の私の部屋は「積み上げる努力すら見られない」わけで、その通りなので私は反論をやめた。 「君はベッドさえ空いてればええやろ」 「ベッド? アリスはどこで寝るんだ」 火村の視線はソファへ注がれるが、そこにはもう既に物言わぬ先客がいる。それも大勢だ。 「俺は、寝ない」 誓うようにそう宣言する。 「徹夜とは、元気だな。そんな切羽詰まってんのか」 「うーん、実際締め切りはまだなんやけど、あとちょっとでできそうなんや。今は大詰め。このモチベーション保つには休まずに突っ切るしかない」 火村の目は心なしか哀れみを湛えている。同情しているのかもしれない。火村も論文を期日までに書き上げるために、似たような経験をしたことが少なからずあるだろう。 「それじゃ、珍しく忙しい作家のために夕食でも作ってやるよ。冷蔵庫に何かあるか」 「あ、鍋の中にカレーがあるぞ」 「なんだ、もうできてるんじゃねえか」 「こうなることを見越して、多めに作っておいたんや。三日も四日もカップラーメンだと、さすがに飽きるし」 「お前の普段の不健康な生活を垣間見た気がするぜ」 言いながら、火村は台所に向かった。正直、自分で準備するのも億劫になって三度の飯の何回かを抜かしてしまうことがあるので、勝手に出てくるご飯ほどありがたいものはない。私は自分で淹れたコーヒーを啜りながら、キーボードへ指を這わせた。 夕食のカレーには、私の入れた記憶のないトマトが入っていた。いつの間に買いに行ったのだろう。トマトは私の好物であったからもちろん嬉しかった。カレーの他に、仕事をしながらちょいちょいとつまめる野菜スティックなども用意してくれた。 私は火村に丁重に礼を言ってから、カレーを平らげるとすぐに仕事に戻る。もう虚構の事件は解決に差し掛かっているのだ。ようやく筆が乗り出したのだ、流れを止めたくはない。しかし今日はまだほとんど気絶するようにして寝た一時間しか睡眠を取っていない。十時を過ぎたところで眠くなってきた。眠気を覚ますために何度か顔を洗ったがしゃきっとしないので、前髪をゴムで結んで額には冷えピタを貼った。そんな私の姿を見て、火村が呆れたように言う。 「そんな風で大丈夫なのか、先生? ちょっとは休んだらどうだ」 「いいや、今寝たら十時間は起きない」 「でも、締め切りはまだなんだろ?」 私はかぶりを振った。 「筆が乗ってる今しか書けないこともあるやろ。このまま順調にいったら、もう二、三時間でできる予定なんや」 「そうかよ」 火村は説得を諦めたようだ。 しかし、十二時を過ぎて火村が寝てしまっても、もう少し、もう少しと思いながらもなかなかゴールが見えない。筆が乗っているとはいえ体のコンディションが芳しくないので効率が思ったより上がらないのだ。やはり火村の助言通り休もうか、いや、でも本当にあと少しだ。そう思うとどうもやめられない。やきもきしながらも筆を進めた。 火村のこしらえてくれた野菜スティックもとうにない。 今アルコールを体に入れれば確実に寝るだろう、という予想から先ほどから麦茶ばかりを飲んでいる。眠くなる度に立ち上がって新しく注いでいたので、いい加減胃がおかしくなりそうだ。 しかし、そんな体の調子とは裏腹に、どんどん画面で構築されていく文章はなかなか、悪いものではなかった。いや、構築ではないか。謎は解き明かされる。ロジックは最後には崩壊するのだ。もう少しで完全に崩れさる。 あと少し。 ほんのちょっと。 私は自らに言い聞かせながら、極限状態の中、ミステリと向き合い続けた。 「アリス」 揺り起こされて覚醒する。 「寝るならちゃんとベッドで寝た方がいい。起きるなら起きて仕事しろ」 視界がぼんやりとしていて、かろうじて自分を揺り起こしたのが火村だとわかるくらいだ。いや、声だけで彼だとわかるけれど。目を擦る。視界が開けてくる。 と、同時に頭が働いて、慌てて飛び起きた。パソコンは依然光を放っている。私は一瞬の混乱の後、慌てて画面を見る。 「げ」 「どうした」 私は冷や汗が背中を滴るのを感じた。同時に、これ以上とない、歓喜。 「最後の句点を打ち込む前に力つきたんや」 「器用な真似をするな」 火村は半ば感心していた。 私は震えそうになる指を押さえて、最後にキーを押す。エンターキーで確定すると、それを素早く保存する。指が震えそうになったのは嬉しさのせいではない。肉体的な疲労から逃れられる安堵のためだ。 「できた」 小さく呟く。火村は「よかったな」と言ってくれた。その声音がいつもより少しだけ優しくて、私は思わず側に立っていた火村の足に抱きついた。 「できたー」 「おい、抱きつくな。お前はこれから寝るんだろうが、俺は仕事があるんだ」 「ええやないか、ちょっとくらい。修羅場開けの作家の抱き枕になってくれ」 「そんなもんに俺を使うな」 火村は迷惑そうだったが、私はぎゅっと足を掴んで離さなかった。この喜びを、とりあえず全身で表したかったのだ。興奮でもはや眠気は襲ってこなかった。 「足を掴むな。足を」 火村は軽く蹴るような真似をして私を振り払うと、そのままその場に座った。なんだろう、と思って見ていると、私の目の前であぐらをかき、軽く両腕を広げて見せる。 そうして、一言。 「ほら」 ほらって、何だ? と思ったのも一瞬のことで、きっと私のことも足下にじゃれつく猫のようにしか思っていないんだろうな、と思いながらも、私はその胸に飛び込んだ。 タバコの匂いがした。 |