プレゼントフロム 頭が少し重い。額に手を当ててみると熱はまだないようだったが、頭がじくりじくりと痛くなってきたので、もうじき出てくるかもしれない。作家という不健康な生活をしていると――もちろん、しっかり節制している作家もいるだろうが――頭痛などの体調不良には慣れっこだ。パターンがわかってくる。冷静に自己分析をして、昨日ちょっとした買い物をしに街へ出て運悪く雨に打たれたのに、ろくに後始末をしなかったからだと推測する。 どうせ濡れたのなんてちょっとぐらいだと甘く見ていた。 猛省。 私はずるずると部屋を這うようにしてベッドへ向かう。もちろん普段はどんなに具合が悪くなってもそんなことはしないが、自分の部屋だとどうしても気が緩んでしまう。ベッドに辿り着いてから、そう言えば書きかけの小説を保存していない、と気づいて、再びずるずるとパソコンの前へ這って行く。 上書き保存、としたところで電話が鳴った。 無視しようかと思ったが仕事の話だったらと思い直し、やっとのことで受話器を手に取った。 「もしもし」 『ようアリス。死にそうな声だな。どうした』 火村か。 「誰やと思ったら君か。取って損したわ」 いつもの軽口ではなく、心の底からの言葉だった。そんな様子が火村にも伝わってしまったらしい。気分を害した、というほどのものではないにせよ、それなりに不機嫌な声だった。 『なんだ、やけに不機嫌だな。具合でも悪いのか』 今まさに不機嫌になったのは君やろが。……とは言わない。言う気力もなかった。 「ああ、ちょっと風邪引いたみたいで、頭痛いねん。……また、事件なんか?」 『お察しの通り。今大阪に呼ばれて今日も今日とて出張中だ。でも、お前はその様子だと来られそうにないな』 もったいないことをした。いつもなら勇んで現場に駆けつけるのに。 「残念や」 思わず口にしてしまった。火村はそんな情けない声を出す私を軽く笑ってから、『今日は助手は普段の不摂生がたたって欠席ですって伝えておく』とからかった。いや、からかったのか? まるきり真実じゃないか。 「大作の完成間際、最後の詰めに差し掛かっていると言ってくれ」 『わかったよ。売れっ子先生』 もちろんこれは揶揄しているのである。人が具合悪いと言っている時になんという言い草だ。いや、優しい火村もそれはそれで気持ち悪いが。 私は火村に事件後の話を聞かせてくれるよう頼んでから電話を切り、ベッドへかたつむりのようにのろのろと這った。 ――実は、ほんの少しだけ、期待をしていた。 今火村は大阪に来ていると言っていた。日中は捜査で大変だろうが、夜なら。 ……いや。 もし大阪府警からお呼ばれしてはるばる京都から駆けつけたのなら、府警の方で火村専用のホテルを用意しているはずだろう。アホなことを考えて夢を見るのはよそう。特に今はただでさえ体が弱っているんだから、期待が外れた時のショックと言うのは相当に大きい。 頭痛にも微熱にも慣れている。一人で過ごす夜にも。 そうだ。ホラー小説について考えよう。 ……今はまだ明るいからとてもそんな気分にはならない。いや、待てよ。朝なのに怖いホラーが書ければそれはなかなか奇抜なのではないか? いやいや。ホラーと言うのはあの独特の暗さと血なまぐささが恐怖をそそるのであって、陽の光が差している場所なのに怖い言ったら後はスプラッタなどのグロ系しか思いつかない。精神的に働きかけるホラーなら、筆一本で演出するのは難しいだろう。聴覚・視覚と支配できる映画やドラマならいざ知らず。 駄目だ。ちっとも眠くならない。 朝だからか。実は昨日の昼から寝ていない。眠気はあるはずなのに、頭痛が頭の中でどんどんと重低音を鳴らすように響いているので、それがネックになっているのかも知れない。なんにせよ、散々だ。あと三週間で締め切りの短編は、珍しく半分まで書いたというのに。いや、普段しないようなことをしたせいかも知れない。張り切りすぎた。 ――ああ、火村に会いたい。 彼は多忙だ。 私は逆に、いつでも暇だ。締め切りが近くても暇だ。自由業とはそんなものだ。だから飲みたいと思った時も、彼の都合に合わせなければならない。会いたいと思っても。プライベートで会うよりも、彼のフィールドワークに"助手"という名目で付き添う方が多いくらいだ。でも、どちらにしたってなかなか会えない。彼のフィールドワークに必ずしも私が同席するというわけでもないし。 ああ、もう、本当に女々しい男やな、俺は。三十四にもなる男のくせして……。私は自嘲しながら目を強く瞑った。ようやく眠気らしきものが押し寄せてくる。 自分も三十四なら、相手も三十四。頭脳の差には年齢では補えないくらいの差があるし(誕生日だって向こうの方が早い)、立場も全然違うし見てきたものも全然違う。そして自分も相手も男。 なんだ。変態性欲って、火村のことじゃなくて自分のことじゃないか。 寝よう寝よう。 微熱が出てきたようだ。顔が火照っているのがわかる。こんな状態だから変なことを考えるのだ。 ずっと知っていたではないか。 学生の頃からずっと。一方通行なのだと。 はっと目を覚ました。 むくりと起き上がると、結構な汗をかいていて暑苦しかった。夏だというのにエアコンもつけずにいたからだ。汗をかいたのだからと思って熱を測ると、なんと三十八度だった。明らかに上がっているではないか。 水分を摂らなかったのが悪かったのかも知れないし、ご飯を一切口にしていないのも悪かったのかも。ああ。先ほど猛省すると言った自分は何を考えていたのか。 とりあえず着替えることにした。上を脱いだら案外に涼しくて、半裸のまま床に横たわる。ああ、気持ちいい。不健康丸出しの締まらない体だが、誰もいないのだから問題ない。誰もいないのだから……、 不意にがちゃり、という音がして無造作に扉が開いた。 つむじをドアの方に向けていた私は飛び上がるほど驚いて、顎を上げて不法侵入者を見上げると、そこにいたのは案の定というか、火村だった。両手にビニール袋を提げていて、足でドアが締まらないように押さえている。 床の上で寝転がっている私を見下ろして、一言、 「何やってんだ?」 「君、何人ん家に勝手に入って来てんねん!」 不法侵入者である友人はしれっと、 「鍵がかかってなかったんだよ。無用心だな」 そう言えば。雨に打たれて帰って来てから、浮かんだアイデアが消えないうちにとすぐに小説を書き進めたからそこへの配慮がなされていなかった。 思えば、夕食を摂る以外はほとんどパソコンに向かっていたのに、進行状況が短編の半分、というのはやはり、自分は遅筆なのだろうか。 「電気もつけてねえな」 「点けると暑いやろ」 「暑いと思うならエアコンをつけろ。壊れたわけじゃねえんだろ?」 「動けん。悪いけど君がつけてくれ」 動けないというよりは動くのが億劫だっただけなのだが、火村は何も言わずに電気をつけ、鍵をかけると何の迷いもなくエアコンのスイッチを手に取ってそれをつける。火村にとっては私の家のものがどこにあるかなど自分の家のようにわかるのだろう。 「で、大作家先生、体調のほどは」 「最悪や。朝、君と電話するより悪なってる」 「どれ」 火村が手を伸ばして私の額に押し当てる。その際、火村の体から外の匂いが私の鼻腔をくすぐった。手も冷たい。この時間帯が一番暑い時期だと言うのに。 「確かに暑いな。八度くらいか」 「すごいな。わかるん」 「勘だよ、ただの」 そう言えば。 「君、どうせ警察の方々がホテルなりなんなり用意してくれてんねやろ? そっち行かなくてええんか」 「別に。どこで寝泊りしようが俺の勝手だろ」 「そりゃそうやけど……」 心配して来てくれたのだろうか。 それならそれで、めちゃくちゃ嬉しいのだが。 「ここの方が過ごしやすくていいんだよ。大体どこに何があるか知ってるし」 「猫はいてへんけどな」 「そうだな、それだけが重大な欠点だ」 火村がにやりと笑うので、私も声を出さずに笑った。喉が痛くて声を上げて笑えなかったのだ。 「あと、そろそろ服着ろよ。エアコンつけたんだから。悪化する」 「そこの服とってや」 こんもりと衣類が積まれている場所を指差して言うと、「これ、洗ったやつか?」と言われた。失礼な。「ちょっと畳むのが面倒だっただけやん」。火村はそれ以上何も言わずに黙って半袖のTシャツを取ってくれた。上半身を起こしてそれを着ると、水分が欲しくなった。よっこらせ、と立ち上がると脳がぐわんぐわんと揺れて焦点が定まらない。よろよろしている私を見兼ねたのか、火村が「取ってやるから、お前は座ってろ」と言った。「何が欲しいんだ」 「水」 「水でいいのか」 「水でええ」 台所に消えた火村が、一分も待たせずに戻ってくる。ソファーに座ったアリスの前のテーブルに水を置くと、火村はもう一度手を額に触れさせた。 あ、近い。 今なら、あれだ。……そう、酔った勢い。酔った勢いならぬ風邪を引いた勢い。ああもう、自分でもよくわからない。けれど、朦朧とした状態であるのが火村の目からも明らかである分、思考なんて面倒なものをぶっとばして、私は火村の唇にキスをした。 触れるくらいのキスだったけれど、火村は驚いて固まっている。相変わらず近い距離のまま、瞠目した火村の目を間近に見ながら、私は満足げに笑った。 「ありがとう。お礼に風邪のプレゼントや」 そのセリフがふざけていたものだったからか、火村は軽く目を逸らしつつ「そいつは、実に……粋なプレゼントだな」と言っている。 「せやろ?」 でも、と、これは自分の中で付け加える。 「実は自分へのプレゼントでもあるんや」 火村はその呟きが聞こえたのか聞こえないふりをしているのか、黙っている。何と反応していいのか困っているのかもしれない。 私は実に爽快だった。こんなプレゼントが待っているのなら、たまには風邪をこじらせるのも悪くはないかな、と思うほどいい気分だった。とりわけ、火村が何も喋れなくなっているのが面白い。君は女の子とは付き合えないな、と口にしようと思うが咳に阻まれてできなかった。火村の用意してくれた水を飲む。ひんやりとした喉越しが、いがいがした喉には心地よかった。 ああ、今日は本当にいい日だ! |