予期せぬ告の顛末 side:E





 先ほどまで深く酩酊していたのに、自分の言葉によって理性を取り戻したこの後輩は、まるで子犬のように大きな目を潤ませていた。自身の"失言"に気づいたのである。むろん、自分が軽々しく"失言"と言っていいような類の言葉でないことはわかっている。しかし、おそらく目の前の子犬――アリスが強くそう思っているだろう。"失言"だと。そんな目をしていた。後悔に潤む瞳。
 酒が入って赤くなっていたはずの顔が、今や色を失っている。江神はむしろ感心した。こんなに表情とは、すぐに色を変えられるものなのだ。しかしそれも、アリスの胸中を考えれば納得のいくことではある。
 ふ、と。こぼれ落ちた愛の告白。
 同性にそんな言葉を贈られたのは初めてだったし、アリスがゲイだという様子は今までどこにも見受けられなかったのでおそらくアリスも初めてだろう。
 今のどこのタイミングで、アリスはその言葉を思わず口にしてしまったのだろうか。江神は軽く今までの行動をさらってみる。EMCのメンバーで呑んでいたのだが、これはよくあることだ。しかし、いつもは酔った先輩やマリアを介抱する役に回るアリスが珍しく潰れていた。その日は朝から講義で疲れていたアリスがいつもより早く酔うのを面白がって、望月と織田が乗せたのだ。しかし、普段前後不覚になるくらい酔うことのない人間が酔うと、なんだか不安な気持ちにさせられるもので、最初は楽しんでいた二人もだんだん不安になってきたらしい。マリアが親切に眠たそうにしているアリスに電車の時間が近いことを告げると、アリスはふらふらになりながらも立ち上がった。そんな姿が見ていられずに、江神が駅まで送ることを志願したのだ。
 アリスは笑っていた。少しだけ、くすぐったそうに。
 二人で並んで歩いていると、呂律の回っていない舌で何度も礼を言っていた。律儀な男が酔うとこうなるのか、と、アリスには悪いが興味深く見ていたのだが、今考えるとそれは嬉しさのためかもしれない。
 考えればいくらでもあるが、決定的なのはやはり、
「アリス、」
 急にぐらりと傾いだ体を、ぐっと肩を掴んで押さえる。
 危ないところだった。あと少しでも江神の反応が遅れていたら、アリスは今頃地面と熱烈な抱擁を交わすことになっていただろう。一瞬でも力が抜けたアリスは、江神の体にしがみつくようにしてなんとか激突を免れる。
 アリスが顔を上げた。
 眠いのか、目は潤んでいた。
 子犬みたいだ、と思っていたら、
「好きです」
 再確認するかのような。
「僕。江神さんのことが」
 ……この不意の告白には、さすがの江神も黙って驚くしかなかった。本当に突然だった。今までその片鱗も見せたことのなかった後輩が、いきなり愛を告げてくるなんて。
 いや。片鱗は大いに見せていたのかもしれない。しかしそれらは江神の目には先輩として慕ってくれているとしか写らなかった。おそらく、似たようなものなのだろう。憧れも思慕も、確かにアリスは見せていた。ただ、それが恋情の一部だったということに気づかなかっただけだ。それらは限りなく似ているものだから。
 江神がそんなことを考えながら黙ってアリスの顔を見ていると、アリスは急に夢から醒めたような顔になり、みるみる血の気を失っていった。平常であれば具合でも悪いのかと訪ねてしまうだろう顔色だ。ああ、と。江神は思う。この後輩は今まで、どれだけの気持ちを、悟られぬよう――抱え、抑えてきたのだろうか。
 江神は安心させるように笑顔をアリスに向け、「ありがとう」と言った。言葉は本心だ。面と向かって好きだと言われたことが、ないわけではない。しかし、アリスの、予期せず漏れてしまった言葉は、今までの誰よりも切実な響きを帯びていたのを感じたのだ。
 アリスは忘れても構わない、と言った。アリス、今その言葉をどんな気持ちで吐き出してるのか。聞いてみたくなった。それは本当に本心か? しかし、アリスの頭に"自分が相手を好くのと同じくらい好かれたい"という思いがあるとは思えなかった。もちろん、どこかにはそういう気持ちもあるのだろう。人を好きになるということは、自分ごときが言えたことではないが、そういうものだ。それでも、アリスの顔は歪められている。泣きそうに、歪んでいた。
 困る。迷惑。配慮。そんな言葉がぽんぽんとアリスの口から放たれる。
「答えを出せだなんて、言いませんから」
 苦しげな様子のアリスを見て江神はなるほどな、と思う。こいつは守りに入っているな。虫のいいことを言っている。
 江神さんが困るとか迷惑とか。アリスは言うが、そうして相手を慮るふりをして、自衛をしているのだ。アリスは二人の関係が変わることを恐れている。だからこの告白をなかったことにしようとしている。好きだと言いながら、自分はどうも信用されていないらしい。
 江神は敢えて何も言わずに黙ってアリスを見ていたが、アリスが俯いたままついに泣き出したのでぎょっとした。握られた拳が震えている。こんなことで世界が終わるわけでもないだろうに。でも、アリスからしたらそれほどの重要さを持つ大事だったのだろう。自分は、男の後輩が涙を抑えきれないくらいに、愛されているのだ。そう思うと、江神の胸にも温かさが宿る。
 しかし、アリスは未だ失意の底にいるようだ。江神は困ったような笑みを浮かべて、とりあえず「電車に遅れる」と言って突っ立ってないで歩くことを促したが、なかなかしっかり歩いてくれないので、江神は無理矢理アリスの手を引いて歩き出す。遠慮なくぎゅっと手を掴んだのは、少しでも江神にアリスに対するマイナスの感情がないことを示すためだが、それを察知したかどうかは甚だ怪しい。だいたい、アリスは今は溢れ出る涙をなんとかしようとして他のことは頭に入らない様子だった。
 はじめこそ引っ張られていたアリスだが、いつの間にか隣に並んで歩いていた。これでは手を引っ張っているようにはとても見えない。端から見れば、男同士が手を繋いでいるようにしか見えないだろう。しかし、放す気はなかった。
 アリスは何度かすみませんと繰り返した。それぞれの謝罪にこめられた意味が違う気がした。告白のことも、目の前で泣き出したことも、手を繋がせたことも、もっと遡れば送って貰うことも。アリスにしたら、全部が謝罪の対象になる。あの告白まではありがとうございますと言っていた。嬉しそうに。それが今や、
「江神さん、付き合わせて本当にすみません」
 である。
「酔い醒ましに出てきたんやから、そんなことをアリスは気にせんでええ」
「僕も酔い、醒めました……」
 そりゃそうだろう。江神は苦笑する。
 やがて駅につくと、どちらともなく足を止めた。駅の前。夜間でも人通りはそれなりにある。しかし、江神は人の目を気にしないし、アリスも今だけは気にしないことにしたようだ。手を繋いだまま、二人とも前を向いている。と、思ったらアリスが急に俯いた。あ、こいつ、また泣いている。する、とアリスの手が江神の左手から抜けた。
 手が冷たかった。震えは誤魔化せても、体温までは誤魔化せない。
 強がっているのが見え見えなのに、意地を張るのは、それはどうしようもない現実にアリスが打ちのめされているからだ。泣きたくないのに泣いてしまう。でも同情されたくないから気丈なフリをする。でも自分では気づいているはずだ。それがつまらない意地だと。相手をそうやって牽制している。その気もないなら放っておけ、と。
 試しているのだ。無意識かもしれないが。
 先の見えている賭だとアリスが言うならば、自分は喜んで覆してやろう。
「アリス」
 江神は、名前を呼んでアリスを引き留めた。先輩に忠実な後輩は素直に振り向く。
 キスまで、あと十秒。


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