氷のてのひら





 初めて手を繋いだ時のことを覚えている。
 どんな流れでそうなったのかは定かではない。ただ、ごく自然に、江神さんは僕の手を握った。やわらかく、包み込むように。その瞬間いきなり心臓は早鐘を打って、僕の手は緊張で氷のように冷たかった。夏の夕暮れだったから、その冷たいことはよく覚えている。そして、江神さんの手も冷たかったことも。
 断じて、江神さんは動揺していたわけでも、緊張していたわけでもない。その横顔は涼しげで、とてもじゃないが僕みたいにあたふたしている風には見えなかった。それなのに手のひらは冷たい。余裕のない僕の心の片隅が、ちょっとだけ冷える。江神さんのこの手の冷たさは、どこから来てるのだろう。僕の手はこの手を熱くさせることが、できないのだろうか。そう思うとちょっと悔しい。本人の前では絶対に言えないが、僕は江神さんの心に入り込みたいと思っている。過去ではない。忌々しい呪いを打ち消すくらいの力がないことは、僕にはわかっている。それでも、ただ、心の片隅――表面的な、体の凍てついたところでも構わない。凍り付いたその場所を、溶かすことができたら。
 それだけで僕は、生きていてよかったと思えるだろう。

 ――きっかけは、たぶんそんなものだったように思う。
 だから僕は、何度目かに招いた自分のアパートで、江神さんの前で土下座をしているのだ。
「お願います、江神さん」
 恐る恐る顔を上げると、江神さんは驚きを通り越して呆れている様子だった。そりゃあそうだろう。早まったか、と後悔しそうになったが、こんなことを口にして今更引き下がれない。僕にしたら、相当の覚悟を決めて頭を下げたのだ。
 江神さんはどうやら困っている。
「いきなり土下座したかと思えば、なんや」
「僕、本気です」
「本気や言うてもな」
 江神さんは懐から煙草を取り出して火をつけた。案外、江神さんも動揺してるのかもしれない。キャビンの煙をくゆらせる。いつもは僕のアパートでは吸わないのに。
 ――抱いてください、江神さん。
 決死の覚悟で口にしたのだが、こんな馬鹿げた頼みを、江神さんはどう受け取ったらいいのか迷っている様子だった。笑い飛ばしてもよかったのに、僕はそうすることも憚られるほどに必死な形相をしているのだろうか。それも致し方ないことだ。
 抱いてください、とあえて自分を女役にしたのはひとえに痛みを引き受けたかったからだ。どう考えても勝手が違って痛いのは――下品な言い方なのを承知で――突っ込まれる方だろう。それならば、その役を引き受けるのは自分の他にいない。
 こんなセリフを、よもや男に向かって口にする日があろうとは。
「……アリス」
「はい」
「どうしたんや?」
「どうしたのかと言われても……」
「何か理由があってこんなことをしてるんやろ? 思いつめた顔して、いくらお願いされても、本を貸してくれますか、言うんと違うやろ」
 困惑こそしていたものの、その言葉に険はない。しかし本当のことを言うことはできない。江神さんの心の内に入り込みたい、なんて。我ながら自分勝手だと思うし、浅ましいとも思う。
「……好きだから、じゃあ駄目ですか」
 江神さんは黙ったまま僕の目を見つめた。せめて逸らさないようにと思うのだが、どうしても揺れてしまう。不安だ。拒絶されるのではないかという。
「アリス」
 ゆっくり、江神さんが僕の名前を呼ぶ。その、驚くほどに優しい呼びかけに、僕は身を硬くする。不安が背中を這いずり回って手は瞬時に冷たくなった。氷みたいに。
「アリス。この一線を越えたら、もう戻れんのやぞ」
「そんなのは、わかってます」
「後悔した頃は手遅れなんや」
 体にべっとりと張り付く焦燥感と不安。否定したいのに、緊張のせいで声帯は全く機能してくれない。後悔? そんなものをするくらいなら、今ここで土下座なんてするわけがない!
「おっと。別にアリスの気持ちを否定してるわけやない。ただ、よく考えてほしい」
「な、に……を」
 声は掠れていた。
「なにを、何を考えろって言うんですか。僕はもう、たくさん考えました。江神さんは僕を心配してくれてるみたいに言いますけど、江神さんに、僕の気持ちがわかってないはずがない」
 焦燥感は更にその質量を増して、今や全身に覆い被さろうとしていた。やり場のない怒りは、言葉となって江神さんへ向かう。ああ、違う。こんなことを言いたいわけではないのだ。
「江神さんは、僕を遠ざけようとしてる。どこへ行くつもりなんですか。一人で。僕が邪魔なら、最初から受け入れなければよかったのに」
 江神さんは黙って僕を見つめている。その瞳に、僕は急に冷静さを取り戻す。八つ当たりまでしてしまって、ひどく泣きたい気分だった。それなのに江神さんを見つめる目は乾くばかりで、涙なんてこれっぽっちも出てきやしない。そのかわりに、鼻の奥がツンと痛んだ。
「すいません」
 とりあえず謝る。江神さんを困らせるつもりは毛頭ない。
 でも、僕がもう少しだけ、臆病な男だったら。江神さんにとっても幸せだったのだろうか。僕は江神さんに手を伸ばした。指先が頬に触れる。――温かい。
 そのまま、顔を近づける。江神さんは抵抗しなかった。鼻先がくっつきそうな距離で、僕はまじまじと江神さんの瞳を見つめた。深い色を湛えている。美しい。江神さんも瞳を逸らさなかった。
 不意に、泣きたくなるくらいの恋慕が、僕を襲った。好きだ、好きだ。江神さんが。英都大学推理小説研究会の部長であり、時に探偵である江神二郎が、誰よりも好きだ。
 この恋しい気持ちをどうしたらいいのだろう?
「キスしても、いいですか」
 軽く首を傾げたのが合図だった。僕はおずおずと、江神さんに口づける。がっつきたい気持ちを抑える。抑えることで、伝わればいい。僕がどれだけ江神さんのことが好きなのか。
 確かめるように。何度も何度も、軽いキスを繰り返す。気づいたら、僕は泣いていた。悲しくて泣くんじゃない。愛しすぎて泣くのだ。この涙の意味はきっとそういう意味だ。
「アリス」
 いい加減涙がうざったくなって服の袖で拭っていると、江神さんが労るように僕の名を呼ぶ。
「アリス、俺はお前に幸せになってほしいと思うとる」
 僕は顔を上げた。
「そう思うあまり、さっきは妙なことを口走った。忘れてくれ。本気でアリスが俺のことを好いてくれて、それが幸せだと思うなら」
 無論だ。
「アリスは、引き返す必要はない」
 僕の体中を包囲していた焦燥感が、徐々に消えていった。それは、つまり、江神さんが僕の要望を受け入れてくれたということか?
 ぽかんとして、涙はあっという間に止まった。僕は相当間抜けな顔をしていたと思う。江神さんはそんな僕を見て笑っていた。それは、僕にだけに見せてくれる笑顔なのか? そうなら嬉しい。明日も生きていける。大げさでなくそう思う。
 江神さんはそっと腕を僕の背に回して、僕を抱き寄せた。僕も江神さんの背中に手を回す。胸に耳を押し当てると、江神さんの鼓動が聞こえた。ああ。生きてる。この人は今ここに確かに生きている。それだけのことが嬉しい。この人の鼓動が僕を生かす。いつから僕はこんなに好きになってしまったのかな。彼女が今までいなかったわけではないし、それなりに愛していたとも思うのに。これほどまで夢中になれる人なんていなかった。嬉しさでまた、止まったはずの涙が溢れてくる。
「アリスはよう泣くな」
「自分が案外涙もろかったなんて、知りませんでしたよ」
 江神さんの胸に顔を押し当てて泣いていると、江神さんは宥めるように僕の髪を梳いた。細くて長い指が頭皮にあたる度、体中の奥底から何か、むずむずしたような感覚が這い上がってくるのがわかった。それが何なのかもよく知っている。これまでに何度もあったから。溢れんばかりの情欲。
 江神さん。江神さんも、僕と同じならいいな。
「アリス、本当にええんやな?」
 何度確認したって同じだ。僕は頷く。
「江神さんになら安心して童貞と処女を捧げられます」
「プレッシャーかけるな」
 笑いながら江神さんは僕をそっと体から引き離すと、そのまま押し倒した。江神さんの長い髪が首筋に触ってくすぐったい。笑い声を漏らすと、江神さんは「我慢してくれ」と苦笑した。髪を乱暴に耳にかけてから、僕の頬に触れた。何だか、笑顔が少し困っているみたいで、場違いにも、江神さんって可愛いなあと思った。頬に触れた手を取って唇を押し付ける。江神さんはその手で僕の服を器用に脱がせていく。Tシャツの上にパーカーを羽織っていただけだったので、上半身はすぐに外気に晒された。気恥ずかしくなって思わず江神さんから目を逸らすと、江神さんはそれを許さないというように唇を重ねてきた。
「ん……」
 キスだけでも息が上がるというのに。僕はキスの合間に、何度か江神さんの名を呼んだ。
 右手を、脇腹の辺りに這わせる。くすぐったさと、それ以上の歓喜と快感で頭がぼうっとしてくる。同時に、下半身が疼くのを感じた。まずいな。江神さんに丸見えだな。でも、いいのか。
 細長い指が僕の体に触れると、僕の体はすぐに熱くなる。江神さんの手も、次第に熱さを増してきた。熱いな。熱さに泣けてくる。江神さんは僕の首筋に顔を埋めて、鎖骨のラインに沿って舌を這わせた。思わず変な声が漏れてしまって、唇を噛み締めて嬌声に耐えた。でも好きな人に触られて、感じない方がおかしいだろう? それでも我慢した方がより興奮するから、と声を我慢していたが、涙は後から後からこぼれてくる。江神さんはさすがに怪訝そうな顔をしたが、「違うんです」と言う他なかった。
「なんや、幸せやなあ、って……」
「幸せで泣くんか、お前は。本当に涙もろいな」
「今日だけです。それも、江神さんの前だけ。特別です」
 笑うと、江神さんは唐突に下半身に手を伸ばしてきた。昂ぶったそれは、大分前から江神さんにもばれてしまっているだろう。ベルトを外し、江神さんは太もものあたりまでジーンズを下ろすと、容赦なくトランクスもずり下ろす。そして、長い指を僕の昂ぶりに絡ませた。今度こそ僕は驚きで声を上げた。人に触らせたことなどない場所だったから。
 いよいよ息が荒くなってきた。声も、嗚咽なんだか嬌声なんだかわからない。だって、尋常じゃない。僕の一番好きな人は男で、その人が今自分の恥部を暴いている。誰がどう見たって尋常じゃないだろう。それとも、僕が興奮しすぎているだけなのだろうか。
 江神さんは、本当に感じている?
 僕は途端に不安になって、失礼を承知で、足で江神さんの股間を触る。――なんだ、ちゃんと感じてるじゃないか。とりあえずほっとした。江神さんは苦笑している。
「江神さんでも、勃つんですねえ」
 真剣に言ったのだが、江神さんは呆れ顔だ。
「お前は俺を勃起不全にしたいのか?」
「違いますって。……なんや、ちゃんと江神さんも気持ちいい思うてくれてるんやな、って、思って……」
「これから嫌というほどわからせてやるから、待っとけ」
「それは、楽しみですね」
 江神さんは指の動きを一層激しくして僕を攻め立てた。息が弾む。江神さんは容赦がない。そろそろイく、と思って息を詰めた瞬間、全身の力が抜けて射精した。二度、三度残骸を吐き出して、腹の上にぱたぱたと白濁の精液が散らばるのが目に入る。こんな体勢で自慰をしたことはないから顔から火が出るほど恥ずかしかった。しかも心なしか、いつもより色が濃い気がする。気持ちよさによって濃度が変わるとかいう俗説があるけど、本当なのだろうか?
 と、くだらないことを考えていたら、江神さんが吐き出された精液を指に絡ませて、僕の後腔に触れた。まだ鎮まっていない体が跳ねる。驚きと、恐怖で、だ。
「や、やっぱりここ使うんですね……」
「他に穴があるか?」
 なんて直接的な言い方だ。
 確かに、女性みたいにきちんと受け入れられる場所がないから、排泄が目的のここを使うのも致し方ないのだろうが。そもそもアナルセックスというのは女性との間でもきちんとしたプレイと認められているし、できないこともないんだろうけど……。
「怖いか」
 素直に頷く。自分から誘っておいて、と怒られそうだったが、嘘をついた方が怒られそうな気がする。
「じゃあ、やめるか?」
 いやいやと首を左右に振った。それを見て江神さんは笑って頷く。
「それなら、続行やな。――そんな心配そうな顔せんでも、無理やり痛いことしようってわけやないんやから」
「わ、わかってます。大丈夫です」
 江神さんはまだ涙の乾ききらない僕の頬にキスをした。次いで、唇に。深く。そうして指は、後ろをまさぐる。指の先が少し侵入してくる。僕は反射的に力を入れてしまう。
「アリス、息、吐け」
 言われるままに、ゆっくり吐く。吐ききったところに、指が少々強引に入ってきて、僕はくぐもった呻き声を上げた。それでも懸命に息を吐いて堅固な入り口を少しでも解そうと努力して。最終的に指が半分以上押し込まれた。
「苦しいか」
「ん、と、変な感じ、です」
 苦しい、と言うより、呼吸の仕方を忘れたみたいに息が吸えないのだ。ちゃんと鼻からでも口からでも息をしようと思えばできるはずなのに。
 この感じは、アレだ。
「坐薬と、似てるかも……」
「ざやく」
 江神さんは繰り返して絶句している。
 また変なことを言ってしまったようだ。そりゃそうだ。これからセックスをしようという時に坐薬、はないだろう。相手にも失礼だ。猛省。
「え、と、すみません、そういうわけやなくて、あのー……」
「もうええ。黙っとけ」
 江神さんはゆっくりその指を動かして、抜いたり、入れたりを繰り返した。苦しくてお世辞にも気持ちがいいとは言えなかったが、だんだん入り口が解れていくのがわかった。あ、指。これは江神さんの指なんだ。しなやかな、あの。……そう思うと、また僕の中心が元気を取り戻すのがわかった。我ながら単純で恥ずかしい。いやでも、まだまだ若いんだしそんなもんだろう? って、誰に言い訳をしてるんだ。
 指だけじゃ足りない。江神さん、あなたが欲しい。しかし、それを真正面から口に出して言う勇気はなかった。
「もうええです、江神さん」
「辛いのはアリス、お前やぞ」
「少しくらい痛いほうが、現実味があってええですよ」
「アリス」
 江神さんが心配そうに見ている。確かに自分のせいで傷つけてしまったら、と考える気持ちもわからないでもない。僕が甘んじて女役を引き受けているのもそこにあるからだ。ひとえに、相手を傷つけたくないという気持ち。だからこそ、心配無用だということを伝えたい。そのためにはどうすればいい?
「僕、平気ですから。痔でも下痢でも、何でも来いって感じです」
「いちいち品のない奴やなあ」
 しまった。インターネットで調べて、一番印象のある言葉だったからつい。
「すいません。えーと、萎えました?」
「それは俺の体に聞いてくれ」
 江神さんはベルトを外して、ジーンズを下ろした。僕はその後の行為に早速緊張して、目を瞑った。しかし僕の後腔に宛がわれた江神さんのものは、ちゃんと勃起していた。ちょっとほっとする。情けない奴、ともう一人の自分が囁いている。うるさいうるさい。
「入れるぞ」
 短くそう言って、江神さんはゆっくり僕の中に入ってきた。途端、張り裂けるような痛みが僕を襲う。悲鳴が漏れそうになるのを、かろうじて耐える。シーツをきつく握り締める。とうによれていたシーツがさらにぐちゃぐちゃになったが、気にしている余裕はない。爪がシーツを巻き込んで手のひらに食い込む。痛い。でも、挿入はもっと痛い。
 呼吸が浅くなって、生理的な涙が乾いたばかりの頬をぬらした。噛みしめていた唇からは血の味がした。締め付けられて江神さんも苦しそうで、なんとか力を抜きたいと思うのに、うまくいかない。
「アリス、大丈夫か?」
 江神さんが声をかけてくれるが、頷いたらいいのか、否定したらいいのか、わからない。誰か正解を教えてくれ。
「顔が青い」
「平気です」
 結局、僕は強がることにした。
 どうしても江神さんに躊躇わせたくなかった。遠慮してほしくない。中途半端なところでやめてほしくない。
「続けて、ください」
 切れ切れの呼吸の合間に叫ぶように言うと、江神さんはそこから何かを感じ取ったのか、小さく頷いた。そして、僕にキスをしてくれる。それだけで痛みが和らいだような気がする。首筋にもキスを落とす。耳朶にも。痛いけど気持ちよくて、ああ、なんだこれ。
 そんなことを繰り返していたら、ようやく先ほどよりマシになってきた。江神さんも心なしか楽そうだ。繋がってる。今繋がってるのか。江神さんと。僕は歓喜に打ち震えた。性行為という特殊なことをしているせいか、喜びに近い感情はすべて官能へと導かれる。
「アリス、ちょっとええか」
 江神さんは相変わらず痛みと快感とを抱えた僕の体を、そっと、しかし少々強引に反転させた。僕はうつ伏せになって四つん這いになる。我ながら恥ずかしい格好だ。江神の顔が見えないことが幸いか。
「こっちの方が都合がいい」
 江神さんはゆっくりと腰を動かし始めた。殊更にゆっくりした動きは僕を気遣うようでもあり、しかし、何かを探すような動きでもあった。僕が後ろを振り向いて江神さんに尋ねようとした瞬間、僕は思わず大きな声を上げてしまった。
 な、なんだ?
 なんだか、よくわからないが、すごく気持ちよかった。困惑して江神さんを見ると、江神さんは嬉しそうに、
「ビンゴや」
 と言っている。何が、ビンゴ?
「付け焼き刃の知識やけどな。男でも性的快感を覚える場所があるんや。この格好がいちばんそこを刺激しやすい」
「医学の知識に富んでいるとは思うてましたけど、まさか、ここまで、だった、とは」
 まったく、さすが部長。EMCの鏡だ。誰もこんな知識必要としていないだろうけど。
 江神さんはまたゆっくり動き出した。しかし、先ほどより明らかにペースが速い。そして確実に、あるポイントを突いてきている。僕は、今度は痛みではなく、襲い来る快感の波に悲鳴を上げた。一度は痛みに萎えてしまった下半身が、また勃ち上がってくる。そしてそれを敏感に察知した江神さんが、腰を動かしながらも右手をそこに這わせてきた。やんわりと握られただけでも既に固く張りつめた高ぶりからは透明なものが溢れだしている。前と後ろと、両方攻められて僕は気がおかしくなりそうだった。頭の芯が痺れている。江神さんも、動きを激しくしている。
 僕は江神さんの顔が見たくなった。無理矢理体を反転させて、江神さんを見ると、今度はキスがしたくなった。繋がったまま、僕は横に手をついて起きあがると、江神さんの首に腕を巻き付けてキスをしする。そのまま、勢いで押し倒した。馬乗りになった状態のまま、僕は腰を動かす。江神さんはさすがに驚いているようだったが、すぐに僕を突き上げた。もうこれ以上は無理だと音をあげる一方、もっと、もっとと快感を貪欲に欲しがる自分もいて、僕は自分の中心に指を絡めた。そのまま自慰をするように包み込んでこする。追い立てる。限界が近い。
「江神さん、」
 と僕は靄がかかったような意識の中で、賢明に江神さんに言葉を紡いだ。
「江神さん、どこにも行かないでください」
 それは言わないと決めたはずの、僕の本音だ。
 堰を切ったように溢れだしてしまう。
 不思議なことに、止めたいとは少しも思わなかった。愛してる、の向こう側にはいつもこの言葉があるから。恋い慕うということは、そういうことだ。
「僕を置いて、どこにも行かないでください」
 江神さんの顔が見えない。今どんな顔をしているのか。視界が歪んでいる。なぜ? 泣いているからだ。
 一人は寂しい。江神さんに置いて残されて、一人で生きる自信はない。
「もしそれでも、いずれどこかへ行くなら。約束を、してください。必ず戻って、来る、って。そしたら僕、待ちます。待ちます、からっ……」
 十年後でも、二十年後でもいい。約束があれば僕は待っていられる。待てることは幸せだ。僕はその間、大好きな人を信じていられるから。
 江神さんは何も言わなかった。その代わり、僕の髪を撫でて、頬に触れて、いとおしむように。それが嬉しくて、それなのに涙は止まらないどころか一層流れてきて、どうにも僕は駄目だ。
 江神さんは僕の首の後ろに手を回すと、そのままぐい、と引き寄せた。僕は江神さんの上に倒れ込むような形で崩れ、キスをする。その間も江神さんはより激しく追い立ててきて、僕は絶頂を予感する。
 しかし江神さんは、急に動きを止めた。そして、あろうことか達する前に江神さん自身のそれを抜こうとしていたのだ。
「え、江神さん」
「このまましたらあかんやろ」
「なんでですか」
 江神さんは焦る僕に、言い聞かせるように言った。
「中で出すのはまずい。ゴムもつけてへんのやし。それこそ腹の調子が悪なったり、性病だって馬鹿にできない」
「いいです、僕は、そんなの」
「よくないから言ってるんや」
「江神さん、いや、いやです」
 尚も抜こうとする江神さんの上から僕はぜったいによけないように、僕は江神さんにすがりついた。
「今だけでええです。今だけ、特別にしといてください。お願いします」
「アリス……」
「中に、出してください。全部、全部吐き出してっ……!」
 全部ほしい。江神さんの。
 倫理的に許されないことかもしれない。それでも、かまうものか。僕は今、心でもいいと思っているのだから。
 江神さんは観念したのか、説得しても無駄だと感じたのか、動きを再開させた。先ほどのように激しく攻め立てられて、僕の前で視界が白く、ストロボみたいに点滅した。そうして、僕は射精した。その後に江神さんも。
 射精後の虚脱感とともに、強烈な幸福感が僕を柔らかく包み込んだ。心地よい倦怠感。江神さんは僕の中から自分のを抜くと、すばやくティッシュでそれと、僕の体を丁寧に拭いた。
「俺はよくわかった」
 そして、唐突にそんなことを言う。
 僕は目を丸くして江神さんの言葉を聞いた。
 その声は苦々しくも、どこか楽しそうであった。
「アリスはとんでもない強欲や、てな。いつもは従順なフリをしてるだけやったんやな」
「そうですよ。僕はとっても欲深な男です」
 まだ多少息が乱れているが、軽口を叩ける程度には回復した。
「覚えておく」
 江神さんは笑った。つられて僕も笑う。
 僕はさりげなく、江神さんの手を握る。
 あったかい。
 それが僕にとってすべてだった。
 すがりつくように手に頬を寄せる。何度でもその手に口付ける。ちらりと江神さんを見上げると、江神さんは慈しむような目で僕を見ていた。大丈夫。僕は自分に言い聞かせる。この人を待つなら、十年だって、二十年だって。それはきっと幸せな時間だろう。
 もしこの手がまた氷みたいに冷えてしまっていたら、溶かせばいい。何度だって。
 僕にはそれができるのだと。信じたい。
 ああ、また涙が。一度泣くと、とことんまで出てくるからかなわない。さすがに謝ろうかと思ったが、江神さんが何も言わず頬の涙を拭ってくれたので、僕も何も言わずに、そっと目を閉じた。


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