鞄を開けたら、蛇がいた。
 ――一瞬思考が停止する。あの時のハブが頭の中によみがえってくる。ハブではない。明らかに。ただ。蛇。蛇。にゅるっとしてにょろっとした……。
 わずか0.1秒ほどの間にそれだけ考えると、僕は素早く鞄ごと持ち上げて一メートルほど先へ投げ捨てた。我ながら大した乱暴な対処法だと思ったが、投げ捨てる直前にしまった、と思ったがもう遅かった。罠だ。冷静になるのが少しばかり遅かったのが悔やまれる。
 結果、僕は傍で見ていたマリアはじめEMCのメンバーに、笑いを提供する結果となってしまった。
「アリスってば、本当に蛇が駄目なのね」
「これ、人形なのにな」
 マリアが腹を抱えて笑っている。望月と織田も右に同じ。江神さんはからかいこそしないものの、しっかりと笑っている。
 僕は改めて自分の投げた鞄からにょろりとはみ出た蛇を観察した。色はオーソドックスな緑。鞄の中で何重にもとぐろを巻いていたから相当長いのだろう。人形だとはいえ、ぞっとする。
 マリアはそっと人形の蛇を持ち上げると、
「こんなに可愛いのに。ねえ」
 と、微笑みかける。
「人形に話しかけんなや。気持ち悪い」
「何怒ってるのよ、アリス」
 マリアが言った通り、僕は相当頭にきていた。よりにもよって、よりにもよって蛇! 織田や望月は以前のハブ事件を知らないが、マリアは確実に知っている。そしておそらく主犯。
「可愛らしいじゃない、この蛇。まさかアリスがあんなに驚くとは思わなかったけど」
「くだらないことするなよ」
「くだらないって言ってもね、この蛇千円はしたんだから。ちょっとお高いいたずらってとこかしら」
「千円!?」
 な、なんてことだ。
「こんな蛇のために、千円!? 俺の反応を見るためだけに、千円! お前の金銭感覚はいよいよおかしい」
「人を世間知らずの貴族みたいに言わないでよ」
 似たようなものじゃないか。
 僕が怒るのに乗せられて、マリアもだんだんと眦がつり上がってくる。そんな僕らを、織田と望月が面白そうに見つめているのだが、僕には最早目に入らない。
「大体、こんなことして何が楽しいんや? 俺は自分で千円分のリアクションをしたとはとても思えん」
「それ自分で言うの?」
「うるさい。マリアには千円の重みがわからん」
「千円千円ってさっきから連呼して、アリスのお金じゃないでしょう?」
「それでもや。俺は千円をそんな蛇のために使ったマリアが許せん」
「許していただかなくて結構。これで蛇嫌いを克服したら千円分の価値はあるんじゃない?」
「勝手なこと言うな」
「それはアリスでしょ」
 最早収集がつかない。
 これだからお嬢様は、とか、アリスはそんなだから、とか、とにかくお互い適当なことをまくし立てて相手を屈服させようとしたが、不幸なことにどちらも自分が悪いとはこれっぽっちも思っていなかったので口喧嘩はヒートアップするばかりだった。織田と望月はそろそろやばいと感じ始めたのか、江神さんにヘルプを頼んでいる。僕はそれすら、目に入らない。
 最初は黙って成り行きを見ていた江神さんだったが、不意に、二人に近づいてきた。
 そして、静かに言う。
「もうええやろ」
 一瞬だけ二人は静かになるが、すぐにマリアが「だって、これぐらいで怒るアリスって、どうかしてません?」とムクレた。この、江神さんを味方につけてどうにかやり過ごそうと思ってるな。僕はそれに対抗して「僕が蛇を嫌いだとわかってての犯行ですよ。許せません」と言った。
 すかさずマリアが「江神さんの前では一人称が変わるのも白々しい」と言い返してくる。先輩との態度の違いを明確化してるんだ、と言い返そうとしたが、それだけでもなのでその点については触れないことにする。
 そんな調子でまた小競り合いが始まるかと思いきや、江神さんが黙っているのを見て、マリアはどんどん元気がなくなっていって、最後には顔をやや俯けて「すみません」と口にした。
 ええー。マリアに先に謝られたら何となく僕は謝りにくい。マリアが謝ったから「僕の方こそ……」と言うのも何だか子供っぽいというか、陳腐というか……。
 僕がごにょごにょしていると、何を思ったのか、江神さんがマリアの手から長い蛇を取った。そしてそれを、僕が避ける暇もなく僕の首に巻き付ける。端と端をきゅっと握って、首が少しだけ締まる。
 江神さんは僕に顔を近づけて、囁くように、
「蛇で絞殺ってのも、艶っぽくてええかもな」
 と、言って、
 僕はその瞬間全思考がストップした。
 江神さんはそんな僕を見て満足したように顔を離し、「反省したか?」と聞いた。一瞬反応が遅れたが僕は二度、三度と頷く。江神さんは「ほどほどにしとけよ。二人とも」と言い、何事もなかったように扉へ向かい、出て行った。そういえば、バイトがあるとかなんとか言っていた気がする。
 気づくと、残された四人はしばらく言葉を発することができなくて、最初に我に返ったのは望月だった。
「アリス。お前殺されんでよかったな」
 望月が近づいてくるのに少し遅れて、織田も近づいてくる。
「俺、初めて見たぞ。あの人が怒るの」
 マリアも軽く息をついた。
「なんだか、私がどきどきしちゃった」
 僕はそれらの言葉を、認識しながら反応が返せずにいた。違う。怒ったんじゃない。江神さんは怒ってあんなことをしたわけじゃない。
 ――心底、楽しそうな顔をしていた。
 僕は未だ首に巻き付いたままのやわらかい蛇にそっと触れると、改めて、背中をかけ巡る衝動に戦慄した。
 それは決して、恐怖なのではなく。



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