そよの吹く場所





 はあー、と、火村は研究室で盛大にため息をついた。ここにいるのは一人だから問題ない。
 論文が進まない。講義がない時はこうやって研究室に籠もって論文の作成に時間を費やしているのだが、筆が進まない。
 仕方ない。気分を変えなければ。――火村は立ち上がると、一服をするために外へ向かった。ちょうど昼食の時間だが、人気のない場所を知っている。学生の頃も、よく一人でそこにいたものだった。風が気持ちよく吹く場所だ。多分今日も誰もいないだろう。そこで少し構想を練って……と、算段していたが、意に反してそこには人がいた。一人だったが。
 少し後ろから様子を窺ってみると、どうやら原稿用紙を広げて、書きにくいだろうに膝の上でペンをせわしなく動かしている。その手の動きが止まっては眉間にシャーペンを押し当ててうーんと唸り、かと思えば何か思いついたのかぱっと顔を輝かせてまたペンを走らせる。そんな百面相が面白くて後ろから見ていたのだが、そろそろと近づいてみても気づく気配はなかった。相当没頭しているようだ。
 未使用の原稿用紙を下敷きにして、書き上げたら自分の体の脇に積み上げている。ある程度近づいても気づく気配はなかったので、火村は既に文字で埋められている原稿用紙をひょいと持ち上げた。
「あ、」
 初めて火村の存在に気づいた彼が顔を上げた。
 どこかで見たことがあるような。火村はしばし考えると、すぐに思い付いた。有栖川有栖。名前の印象が強烈だったのでかろうじて覚えていた。どうやら、書いているのは推理小説と呼ばれる類のものらしかった。
「それは駄目ですっ」
 アリスは慌てたように火村の手から原稿用紙を奪い返そうとしたが、立ち上がろうとした瞬間、膝の上にあった原稿用紙がばさばさと落ちる。あちゃー、という顔をしてアリスはそれを丁寧に拾い上げた。
「人に読ませて恥ずかしいものを書いているのか?」
 思わずそんな意地の悪い言葉が口をついて出てきたが、そこについてはアリスはきっぱりと否定した。
「違います。誰が恥ずかしいと思うかは知りませんけど、僕はそういうつもりやなくて……火村先生、ですよね」
「ああ」
「犯罪とかに詳しいんでしょう? なんか、そういう人に見られるのはいつもとちょっと違う覚悟がいるっていうか……」
 なるほど。犯罪というものがモロに絡んでくる推理小説だからか。
 火村は、改めて問うた。
「面白そうだ。見てもいいか」
 アリスは緊張の面持ちで、しかし期待するように頷いた。
 面白そう、というのは嘘だ。そう言えば物書きというのは嬉しがるもので、言ってみただけだ。しかし、読み進めると思った以上に文章が整っていて驚く。それでいて先ほどの様子から驕っている風でもない。本当にミステリが好きで……といったものが文体からひしひしと感じる。
「ど、……」
 とりあえず書いているところまで読み終えても何も言わない火村にどうですか、と聞きたいのをぐっと堪えている風だった。流石に感想まで求めるのは不躾だと感じているのか、矛盾点はなかったかと今更になって不安になっているのか。
「……少し不可解な点があるな」
「えっ」
 火村は該当ページを探してアリスに渡す。アリスは素早く原稿用紙に目を走らす。
「そこ、もし事件の直前に被害者と合った男とやらが犯人ではないのなら、普通は死んだことの知らせを聞いて真っ先に警察に行くはずだろう。隠す理由がないんだから」
「ああ……確かに」
「あと、死体は普通司法解剖されるから運び出される。遺族が来ても、現場でご対面、とはいかないぞ」
「そうなんですか?」
「ああ」
 アリスは慌てて別の紙に急いでメモをした。
「ありがとうございます、火村先生」
 丁寧に頭を下げる。今時の――という言葉はあまり好きではない。「最近の英都大学の」に訂正――学生にしては律儀だ。火村は原稿を返しながら、「推理小説が好きなのか」と聞いた。
「はい。推理小説研究会にも入ってるんです。うまくいけばこれを、」
 手の中の原稿用紙をくすぐったそうに見つめる。
「機関誌に載せよう思てるんです」
「……なるほど。作家の卵というわけか」
「そ、そんなんやないですけど」
 謙遜というよりは恥ずかしそうに否定した。
「あの、火村先生」
 火村は何だというように少し首を傾げて見せた。アリスは、えらく真剣そうな顔をしている。
「また、僕の作品読んでくれませんか」
「そうだな。それの続きも気になるしな」
 そう言って笑うと、アリスはぱあっと笑顔になって「ありがとうございます!」と、再び頭を下げた。先ほどよりも深く。
 アリスは昼食をとらなければいけないと言って去っていったが、火村は誰もいなくなったそこに佇みながら煙草をふかした。
 昼食もとらずに、友達とも話もしないで、一人で人を殺し、謎を構築し、最終的に自らの手で謎が暴かれる話を書くのは、どういう気持ちなのだろう。それはフィールドワークとも全く異なる気がする。
 不思議な学生だな、と、自分を棚に置いて思いながら、風に乗せて紫煙をくゆらせた。



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