暗い密室からの脱却、崩壊と構築 ――手首を切ったらしい。 ――自殺未遂。 手首を切ったらしい、自殺未遂した、私は、倒れるかと、本当に。意識を失った、何割か。彼女は一言ぽつりと漏らした。そうだ。 ――生きててもつまらないと思って。 ばらばらばら、と、音を立てて。崩れそうになった私の精神が、支えられて、そう、本当に倒れそうになったあの時自分の体を支えていた腕の役割を、小説がなしてくれた。ただ小説では駄目だった。私が書いた、私の手によって生み出されたミステリでなくてはならなかった。今まさに運命――という陳腐な言葉でしか表現できない、世界を動かしている大きな力――に翻弄されて崩壊しそうになっている自分の精神が生み出した、世界を翻弄するロジック。 なんて美しい。不条理な世界は、いずれそれを生み出した手で崩れ去ることを知りながら。構築した謎はそれでも美しい。私は十七歳のあの日、自らの小説に酔いしれた。そうすることで私は救われた。ロジックは私を受け入れ、私はそこに身を委ねた。これでもかというほどに汗を吸い込んだ原稿用紙は波打ち 、字も時折読めなくなっている。そんな有様だから、十枚の原稿用紙が二十枚にも見える。目に見えて増えていく原稿用紙は、いずれ宇宙にも到達するのではないかと思われた。たぶん、私が人生初の恋文を渡した時にこのままなら月へ行けるだろうと思った全く逆のベクトルで、同じように私は興奮していたのだ。 からくも窮地を逃れた私の精神が安定するまでそう時間はかからなかった。 それでもやはり学校で彼女を見かけると息が止まるし、反射的に彼女の見えないところまで隠れてしまう。動悸が激しくなる。それは人間としてごく普通の反応だろう。誰だって、哀しい思い出には不用意に触れたくない。 周りから見たら私はまったく、いつもと同じ、それまでの私と同じ私であっただろう。 「……というわけで、明日のテスト頑張ってくださいね」 テスト。その単語にはっと我に返る。またぼーっとしてた。最近はずっとこんな調子だ。先生の話が耳に入ってこない。そりゃあ、いつもだってろくに聞いてない時もあるけど、最近は異常なほどだ。意識がすぐ別のところへ飛ぶ。かと思えば、新しいトリックを無意識に模索していたりする。 ――教室で殺人は可能だろうか? もちろん、可能だ。でもトリックが作りにくい。人目が多いし、密室トリックなんてのはもっと難しい。四枚のドアの他に、その上にも開閉可能なガラスがあるし、窓だってそうだ。いっそ、内側からテープでぐるぐる巻きにするか? そうして自殺に見せかける。そう、内側からガムテープを巻くなんて、自殺以外にあり得ない……――。 自殺。 「では、さようなら」 またはっとする。 自分の思考は夢のようだ。ある特定のところに行き着いたら、急に心臓が高鳴って"目が覚める"。 ガタガタと机を下げる音がする。今週、掃除はない。足早に教室を後にすると、歩きながらでもどんどんアイデアは沸いてきた。 ――旅行先で、はどうだろう。ある旅館で起きる事件。その旅館の中の人にしか犯行は不可能、それなのに旅館で一緒に泊まっていた人に知り合いはいない。最初は自殺と思われるが、自殺を否定するような証拠を探偵は発見し……。 自殺。 いや、駄目だ。思考を止めるな。 同じところに留まるな。 周りで、自分の名前を呼ぶ声がする。が、水の中のように鈍って何も聞こえない。私は自分の思考に没頭する。 ――そうだ、それならばいっそ孤島はどうだろう? 山奥でもいい。ある団体の……そう、たとえば推理小説研究会。そういうサークルが大学にあって、そのメンバーで来ていたら予期せぬ事件が起きて、その場所に閉じこめられる。犯人は同じサークルの誰か。……うん、これはいい。ゾクゾクする。 いつの間にか心が躍った。早速取りかかろう。上手く書けたら、小さな賞に出してみよう。自分の小説が評価される。それはとても恐ろしいことだが、同じくらい期待を寄せてしまうのが人間だ。 来る日も来る日も鉛筆を滑らせて、原稿用紙の上で、まるで踊るように。その頃はまだ、私は自分の暗い喜びにどっぷりと浸かっていた。自分の心というクローズド・サークルだ。自分で仕掛けた密室から出る方法を忘れてしまった、間抜けな犯人さながらに、しかしその間抜けさに幸か不幸か気づかずに、いつの間にか小説を書くという行為に自分の精神を助ける、という意味合いはなくなっていた。 その時本当の意味で私は救われたのだ。 脱出した。暗い密室から。 「げ。締め切りもう一ヶ月切っとる」 そう言って慌ててペースを上げた五月。 階段教室で、講義中にも関わらず原稿用紙を机の上に広げた七日。大学生にもなればもう、長い時間鉛筆を持ち続けて指が痛くなるということも少なくなっていた。慣れというのは恐ろしいものだな、と思いながらも必死で書き込んでいると、指が少し痛んだ。たまに、急いで書いている時や勢い込んで書いている時、いつもより強くペンを握ってしまう癖があるのだ。中指を軽く揉んで、すぐにまた書き始める。 ああ、なんて楽しいんだろう。 充足感が胸に広がる。 好きだ。本当に。推理小説というものが。 ペースはぐんぐん上がって、指が勝手に動いてくれるようになった時、隣でガサガサ、という原稿用紙が擦れる音がして、ぎょっとして隣を見る。 火村だ。 「なんで小説を書こうと思ったんだ?」 と、一度だけ彼に聞かれたことがある。私はあの日の記憶を思い出すまでもなく、「秘密や」と笑って見せた。 確かにきっかけは十七歳の出来事にあったかもしれないが、今問題にすべきはそこではない。私は最初は逃避(あるいは、昇華)であったそれが何よりも大好きになった。だからそれを職業にした。それでいい。それだけでいい。 もちろん、あの日のことを思い出しただけでもう取り乱したり心臓が跳ねたり、ということはほとんどない。ただ、ふと、自分の出版した本に印刷された、自分の文字を見て――ここまで来てしまったのだ、と思うことはある。誰にも見せられなかった汗まみれの、たぶん誰がどう見ても駄作だった処女作が、それなりに売れ、それなりの人に読まれている。そんなこともあるんだと。 それだけだ。 「で、新作はいつなんだ、先生」 「次はすごいぞ。あっと驚くトリックを用意しとるからな」 「それは気になるな」 「嘘付け。君のその手にはもう乗らん」 笑いながらビールを呷って、ふと傍らの本棚に目をやると、この友人はしっかりと私の本を置いていた。しかし、ある本は逆さまだったり、ある本は本の上に横向きに置かれていたりして、扱いが雑なことこの上ない。 それでも他人の家にある自分の本というのはどうしても嬉しいもので、私は、悲しみや辛さを感じる必要などないのだ。そう言い聞かせて、缶ビールを一気に呷った。 うまい。 |