ありがとう、大き。






 顔が火照っていて、指で触れるととても熱かった。指が灼けそうだと思ったほどだ。
 明日叶はあまり気が進まなかったが熱を計ってみると、思った通り、38度もあった。今日は授業も休んだ方がいいのかも知れない……と思い、ひとまずディオに知らせることにした。慧ではなくディオにしたのは、慧の部屋まで行く気力がなかったからだ。
 重い体をほとんど引きずるようにして、明日叶はやっとディオの部屋のドアを叩いた。
「ディオ」
「ん、明日叶?」
 ディオは上半身裸で姿を現すと、途端に大げさに驚いた。
「おい明日叶、大丈夫か? 死にそうな顔、してんじゃねぇか」
「ちょっと、熱があって」
「寝てなくて大丈夫なのか」
「多分、大丈夫じゃない」
 明日叶は、ディオに今日の授業は休むこと、チームグリフの方にも顔を出せないことを伝えてほしいと頼んだ。
 ディオはそれは構わないが、と言ってまじまじと明日叶の顔を見つめた。
「何か、目が、」
「目?」
「気のせいかも知れねえが、目、いつもと違う」
「……あ」
 明日叶は指摘されて初めて気づいた。
 "視える"。
「まあ、先生と亮一にーさん、パートナーの慧には俺から伝えてやる。だからお前は、ゆっくり休め」
「ありがとう、ディオ」
 礼を言って、部屋までついて行くというディオの誘いを大丈夫だからと断って、明日叶は部屋に戻った。
 体中だるくて、ベッドの上に横になってもまだ辛い。あまりの苦しさに脂汗をかきながら、熱だけならまだよかった、と思った。熱だけならこの苦しみも半分は軽減されるだろう。今明日叶は、トゥルーアイズの力を常に使っている……すなわち、昔のような状態だ。
 この状態で今ミッションなんかに参加したら、どうなるかわからない。想像したくない。怖い。それはつまりは慧がいないまま育った自分の未来の姿だからだ。
 ……慧、心配するだろうな。
 明日叶はぼんやりと慧が居眠りをしている授業中の教室を思い浮かべた。ああ、慧の声が聞きたい、ぎゅっと、抱き締めたい――。
 熱のせいで情緒不安定になっているらしい。目を開いていると苦しくなるので、痛いくらいに目を閉じた。頭はずきんずきんと鈍痛を訴えている。
 明日叶は、外界からの情報が頭を占拠する感覚を、久し振りに味わって精神的にも疲弊していた。否が応でも昔のことを思い出す。嘘つきという言葉。慧の家での温かい日常。記憶は徐々に現在へ。最早失われた温もり。代わりに手に入れた一番すきなひと。
「……慧」
 言葉にするだけじゃ足りなくて、そこに慧が存在するかのように、手を伸ばす。虚空だけ掴んだその手は、やがて力を失ってぽすっと腹の上へ落ちた。
 発熱したのは、何年ぶりだろう。小学生の頃は力を操りきれず病弱だったが、慧と一緒に力を制御できるようになってからは、体調はずっと安定していた。
 風邪をひいた時は、何をしていたっけ。母さんは何をしてくれたっけ。慧はリンゴジュースをくれた。
 リンゴジュース。その単語だけやけに頭に残った。あぁ、リンゴジュースが飲みたい――。

 その時だった。
「明日叶っ」
 だいすきなひとのこえ。
「……慧?」
 慌てて起きあがろうとしたら失敗して床に転んだ。ここがアメリカじゃなくてよかった、床は多分アメリカより綺麗だ、そんなことを一瞬のうちに考えた。
「明日叶、大丈夫か」
 慧が手を引っ張って起こしてくれる。「無理するな」
「慧、授業は」
「そんなもの、出ても出なくても同じだ」
 確かに、慧はそうかもしれない。明日叶が笑うと、慧もやっと表情を緩めた。そして明日叶を再びベッドに寝かせると、コンビニの袋を投げてよこした。
「リンゴジュースだ」
「あ、……ありがとう」
 明日叶はパッケージを見つめて、それから口を開け、一気に飲んだ。冷たいそれは、明日叶の喉を十分に潤わせた。
「う、」
 しかし慧が見えると言うことは、他の余計な情報も見えてしまうということである。明日叶が小さな呻き声を上げると、慧はすぐに気づいた。
「まさか、明日叶、力が」
 ディオといい慧といい、本当によく見ている。
「ああ、力が……制御、できない」
 慧の表情は一見冷たい表情に見えるが、その中に心配とか、不安の色を孕んでいることが明日叶にはわかる。
「慧」
 明日叶はあえてゆっくり、今目の前で厳しい表情をしている慧の名前を呼ぶ。
「目を、塞いでくれないか」
「目を」
「あぁ。昔みたいに」
 明日叶が上半身だけ体を起こすと、慧は静かに明日叶の後ろに周り、ベッドの上にあがって両膝をついた。そしてそっと、後ろから手を回して明日叶の目を隠した。昔のように。
「慧の手、……冷たいな」
 明日叶は慧の手の上に自分の熱い手を重ねた。
 ちょっとずつではあるが、慧の手も温かくなっていく。
「慧」
「…………」
「……何でもない」
 キスして、と言おうとして、風邪が移ってしまうかも知れないと思ってやめた。慧は「何だ」と聞いてくるが、明日叶は頑なに「何でもない」を繰り返した。
「慧、午後はちゃんとミーティング参加しろよ」
 慧はややあってわかったと答えた。わかったということは行くつもりはなかったんだろうか。慧はどんな作戦にも必要不可欠な存在だというのに。


 慧が行ってしまうと、空虚さだけが残った。慧がさっきまでいた場所は、再び虚空に。
 もう一度眠ろうか、と思った時だった。
 腕のバングルから電子音。
 ――無線だ。
『やぁ明日叶。休んでるところ申し訳ない。体調はどうだい?』
 亮一さんの声だ。
「今は、大分落ち着いています。それより、何かあったんですか」
『いや、何があったというわけじゃあないんだが』
 亮一さんは自分は気乗りがしないという声で、次のミッションで明日叶の力を借りたいという趣旨のことを話した。
『ベッドの脇にパソコンを用意して、端末から画像を送るから、それを贋作か真作か判断してほしい』
 亮一さんは少し間を置いて、頼めるか? と聞いた。明日叶はすぐさま「はい」と答える。今は常に力を使っているようなものだから、そんなことぐらいならできる。
『僕は気乗りしないな。だって明日叶ちん、熱出してるんでしょ?』
『俺も俺も、反対っス!』
 ヒロと太陽の声。
『気は進まねえな』
 ディオの声。
 みんな、俺のことを心配してくれている――そう思うと、胸が熱くなるのと同時に、ここで俺が頑張らなくちゃという、ある種の責任感が生まれた。なるべくいつも通りを装って、「俺は大丈夫です」と答えた。
「それだけなら体を動かさずにできますし、そもそも、そこまで体調が酷いわけでもないですし」
 明日叶の様子を目にしたディオと慧なら、そんなの、強がりだとすぐに見透かしただろう。ただでさえ熱のせいで体調不良なのに、それに重ねてトゥルーアイズの力の暴走……。
 でも明日叶は、ミッションに参加したいと思った。みんなと一緒に。
『本当に、大丈夫かい』
 弟や妹がいるという亮一さんの声は優しく温かい。この人たちの役に立ちたい。明日叶は力強くはいと答えた。
 それから細々としたミッションに関する説明がなされ、やがて通信が切れた。明日叶は体中に力が漲ってくる錯覚を覚えながら、しかし膨大な量の情報が流れ込んでくるこの力を、持て余してもいた。
 ガチャ、と音がする。ああ、慧だ、明日叶は見なくてもすぐにそう思った。わかる。
「明日叶、本当に大丈夫なのか」
「次のミッションのこと」
「ああ」
 明日叶は不器用に笑って見せた。慧は明日叶のことになると途端に冷静さを欠く。
「大丈夫」
 どんな言葉を選べば、慧を心配させずに済むのだろう。考えたが思い浮かばず、結局陳腐なものになった。しかし、本心ではある。
「何でか、俺、少しも不安にならないんだ。今も、こんなにたくさん、本当にたくさんの情報が次々に視えているのに」
「……」
「慧が、いるからかな」
 少しはにかむと、慧は何も言わずにキスをしてくれた。明日叶が慌てて風邪が移ると言うと、関係ないと言われた。
 や、関係ないわけない。これから大事なミッションを控えてるというのに。
 しかし明日叶自身、ずっと待っていたキスだ。離したくない、そんな思いが占拠して、キスを拒むことなどできなかった。そもそも、明日叶が慧を拒むことなど、少しもできやしないのだ。
「明日叶」
 甘いキスの後、慧はまっすぐ明日叶を見つめた。明日叶も、そんな慧の、綺麗な瞳をじっと見つめる。
「その熱と力の暴走が、もし、トゥルーアイズの力を使ったことのリバウンドなら」
 慧は少し、苦しい表情をしていた。そして、次に続く一言を発するのを躊躇っていた。
「……俺はお前に、力を使ってほしくない」
 ともすればそれは明日叶からこの学園にいる理由や価値を奪ってしまう言葉になる。慧は、それをわかった上で使ってほしくないと言っているのは、ただひたすらに明日叶が心配だからだ。
 明日叶は、今度は「大丈夫」とは答えられなかった。
 しばし、沈黙が部屋を支配する。慧はじっと明日叶を見つめていて、あぁ、慧は待っていてくれている。明日叶はそんな不思議な安堵感に包まれた。
「……多分」
 慧の顔、何でこんなに綺麗なんだろう。じっと見つめていたからか、そんなことを脈絡もなく思った。
「多分、これは一時的なものだよ」
「どうしてわかる」
「直感、かな」
 それに、と明日叶は続ける。
「もしこれがずっと続いても、あるいは力を使うたびにこんな風になっても……」
 少し、笑う。
「慧がまた、目をふさいでくれるんだろう」
 それなら俺は、怖くない、辛くない。明日叶がそう言うと、慧は何かを考えているようだった。恐らく慧の中で葛藤しているんだろう。
 それはとてもむず痒い感覚を明日叶の中から呼び起こした。こんなに綺麗な目をした慧は自分のものだという喜びと、またこんな表情をさせてしまったという後悔。
 やがて、慧は小さく「わかった」と言った。
「何度でも俺は明日叶を助ける。明日叶がそういうリスクを背負うのなら、俺も一緒に、それを背負う」
 慧。明日叶は名前を呼び、熱くなって、言葉が出なくなるほど震えてしまう胸を抑えて、「ありがとう」と言った。
 そして再びキスをする。
 今度は、自分から求めた。慧はそれを受け止めて、期待通りのものをくれる。明日叶と同じで慧だって、絶対に明日叶を拒むことはできないのだ。
 熱が溶けていくような感覚。同時に、熱が更に上がっていくような感覚。不思議な、ふわふわした感覚を味わいながら明日叶は、ただただ、慧が愛しかった。
 慧、慧。大好き。愛してる。譫言のように呟きながらキスをすると、同じ言葉が返ってくる。安心できる低い声に体が歓喜に震えた。束の間、熱のことも、トゥルーアイズのことも、チームグリフのことも忘れて、ただ大好きな人と、キスをした。


 ミッションを成功させた次の日、明日叶の熱は完全に下がった。ミッションを行った時も熱は37度まで下がっていたし、力の暴走も収まってきていた。その次の日、熱が下がるのと同時に、嘘のように何も視えなくなった。
 まだ病み上がりだからと訓練に参加することは禁止されたが、久しぶりにグリフのメンバーの顔を見られてホッとした。興の絵を見ても何も見えなくてまたホッとした。
「明日叶ちん、大丈夫なわけ!?」
「明日叶センパーイ! 大丈夫っスか!!」
「あまり無理はするなよ、明日叶」
 口々に声をかけてくれるメンバーのみんなにもう大丈夫と言いながら、ちらりと慧を見ると、慧も明日叶を見ていた。
 小さく微笑んで見せてから、明日叶は心の中でありがとうと呟いた。
 慧に伝わったってことは、慧の顔を見れば、わかる。
 そしてその先にある言葉も、伝わったという確信がまた、明日叶を笑顔にさせた。


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