負けず嫌いな






 またディオと慧がよくわからない理由で喧嘩している。明日叶は焦る気持ちと、もうすっかり慣れてしまって悠長に構えている呑気な気持ちとが混ざり合って、非常に複雑な気分になった。
「もうそろそろ止めろよ、ディオっ、……慧!」
 しかしこのままでは教室は破壊され、床は血の海になってしまう。明日叶は頃合いを見計らって声をかけ、二人の間に入っていった。こうしてしまえば、二人は一旦は止まる。
「いつまでやってるつもりだ。俺は腹が減った。お前らが納得しないなら、俺は先に行ってるからな」
 明日叶が二人に背を向けて歩き出すと、控えめに腕を引かれた。柔らかく軽い動作は、ディオのものだ。
「悪かったよ、明日叶」
 明日叶が振り向いてディオと視線をかち合わせても、からかうような色はない。明日叶は軽く微笑んでみせる。慧の方を向くと、慧が先ほどまでまでたぎらせていた殺気は消え失せ、つまり戦意を喪失していた。明日叶は少しホッとする。
「じゃあ、とりあえず片付けるか。教室」
「そんなもん、他の奴らに任せておけよ。午後もここを使う奴らにな」
 明日叶はすぐさまそれを却下した。「駄目だ、美学行動科の失敗は俺たちで処理しないと」厳しい顔をしてみせる。
「失敗、ってなぁ」
 ディオは明日叶のその言葉が気に入らなかったようで、呆れたような表情をした。
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
「相互理解、とでも」
 ディオが意地の悪い笑みを浮かべながらそう宣う。誰が、と慧が吐き捨てるように呟いた。
「男は拳で分かり合う、って言うだろう?」
「……随分日本人的な考え方だけど」
 確か、ディオの生まれは日本じゃないはずだよな……と明日叶は頭の隅で考える。
 明日叶は生粋の日本人だが、暴力で本当に分かり合えるのかどうか、疑問である。大体二人は毎日のように喧嘩してるじゃないか。でも相互理解としてはスタンダードな言葉での対話の他に、こういう形も、あってもいいのではないか。すなわち、
「肉体的な対話……?」
 思わず呟くと、ディオがあからさまにうっと顔をしかめた。「そりゃあ……ないぜ、ガッティーノ」慧も慧で、思い切り顔をしかめてディオを睨みつける。明日叶は状況が飲み込めずにあたふたする。
「え、と。俺、何かまずいこと言ったかな」
 二人とも嫌悪を隠そうともせずにいるので、明日叶は何か気に障るようなことを言ってしまったのかと慌てたのだが、二人の微妙な表情を見る限り、そういうわけではないらしい。
「……まあ、いいか。明日叶だしな」
 切り替えの早いディオはさっさと教室の復元に取りかかる。同じく切り替えの早い慧も、またいつもの無表情に戻り、倒れてしまった机や椅子を持ち上げる。
「何なんだよ、二人とも?」
 自分だけが何もわかっていないような、否、わかっていない状況に混乱するも、慧が「明日叶は、そのままでいい」と言うので、不思議なもので、本当にこのままでも構わないって気持ちになってくるんだ。


 その後無事昼食を食べ、午後の訓練に参加し、日も暮れて、一日が終わろうとしていた。明日叶は気持ちのいい疲労を感じながら、何となく石川啄木の短歌を思い出していた。こころよき疲れなるかな息もつかず仕事をしたる後のこの疲れ……。
 ベッドの上でようやく一息ついて、復習と予習やらなきゃな、とぼんやり夜のこれからの予定を組み立てていると、控えめなノックの音がした。
「はい」
 別にノックの音で判断したわけではないが、慧かな、と思った。でもそれはほとんど直感のようなものだったから、ドアを開けて本当に慧がいたのには驚いた。
「慧、どうしたんだ? こんな時間に」
 目の前の慧は相変わらず無表情だが、珍しく口ごもっている。何となくばつが悪そうだ。明日叶は首を傾げながら、とりあえず中に入れよと声をかけた。慧は素直にそれに従う。
「なんか、飲む?」
「いや、いい」
 そうか、と答えたら沈黙が襲ってきそうだったので、慧と二人ベッドの端に並んで座り、たわいもない話をぽつぽつとして会話を繋げようと試みた。慧は時折相槌を打っているが、もちろん、こんなことを話すためにここに来たわけではないだろう。
「……」
 もともと自分の話をするのは苦手だし、もう話すことも尽きてしまった。どうしようかと思っていると、慧が明日叶の名前を呼んだ。
「……慧」
 なんだろう。
 慧に名前を呼ばれると、自分の名前が、とても素敵なもののように思えてくる。それに、ちょっとだけ、鼓動も逸る。なんなんだろう、一体。慧はまっすぐ明日叶の目を見つめている。瞳は穏やかだった。これはきっと、明日叶にしか、わからない。
 慧がそっと、明日叶の頬に右手を伸ばす。触れる。慧の指先。冷たい。手に巻かれた包帯は、温もりを隠しているのではないかと思った。明日叶は自分の頬に触れた手に、キスをしたいと思った。
 しかしもちろんそれを行動に移せるはずがなく、ああ、なんだろうなこれはと同じ言葉を頭の中で繰り返していると、慧の瞳がふっと揺らいで、
「……あ、」
 明日叶のよく知る、優しい目になった。
「慧、」
 名前を呼ぶと、ゆっくり慧の顔が近づく。反射的に目を閉じると、
 本当に軽く、
 お互いの唇が触れた。
 転入当初、慧にされたような、噛みつくようなキスではない。そして強引でもない。明日叶は確かに、目を閉じた。自分から。
 唇はすぐに離れていってしまう。明日叶は名残惜しさを感じたが、完全に離れてしまうと、一気に正気に戻った。
 今のキスは、どういう意味のキスだ? まず問いはそこから始まり、どうしてこういう流れになったのか、そもそも慧は本当は何をするために来たのか、まさかこれのために来たわけではあるまい、とか、混乱する頭は疑問でいっぱいになった。
「……明日叶?」
 硬直してしまった明日叶を見つめて、慧が声をかける。
「い、いや……」
 明日叶はしどろもどろになりながら、キスが嫌でこうなっているわけではないと伝えようとしたが何一つ伝わらない。慧はそんな明日叶の胸中を読みとったのか、ふっと笑って明日叶のこめかみに軽くキスを落として、立ち上がり、出て行ってしまった。
 引き留めようと明日叶も立ち上がったのだが、膝に力が入らずに転んでしまった。
 なんだろう。
 この気持ちは。
 触れるだけのキスをして腰砕けになるこの気持ちはなんだろう。
 明日叶は混乱していたせいか、谷川俊太郎の「春」という詩を思い出していた。その詩に幾度か出てくる「この気持ちはなんだろう」という言葉ばかりが頭の中をぐるぐる回る。
 その時、ドアを叩く音が聞こえた。明日叶はすかさず「はい」と返事をしてドアを開けると、
「よお、明日叶」
 そこにいたのはディオだった。
 ディオは明日叶を頭のてっぺんから爪先まで舐めるように見つめると、ため息をついた。落胆のため息。明日叶はディオの意図が飲み込めずに首を傾げた。
「な、なんだよ」
「いや……」
 ディオは呆れたような表情をしている。
「藤ヶ谷は、何もしなかったのか」
「……はぁ?」
 何を言ってるんだディオは。明日叶はますますわけがわからなくなって「どういうことだよ」と言うも、ディオは何も答えてくれない。ただ、
「どこまでも根性のねえ奴だな、あいつは」
 と呟いただけである。
 そのまま出て行こうとするディオを明日叶は引き留める。
「何なんだよ、一体。いきなり来たかと思ったら、慧の悪口だけ言って帰るのか」
 ディオはふっと笑った。
「藤ヶ谷に言ってやったんだよ。"お前もいい加減明日叶と肉体的な対話してこい"、ってな」
 ディオは笑いながら自分の部屋に戻っていった。
 どういうことだ? 明日叶は更に混乱したが、やがて考えることを放棄した。知恵の輪は、苦手だ。


 朝から慧とディオの姿が見えないのは変だと思った。慧なら早朝のトレーニングに出かけている可能性もあるが、ディオもいないのは何だかおかしい。だからこそ明日叶は、いつもより早く学校に行ったのだ。
 教室に入る前、何となく嫌な予感がした。そして嫌な予感というものは得てして当たってしまうもので。
 教室に入ると、そこは戦場だった。
 戦場では慧とディオが戦っている。既に机も椅子も酷い様子だ。
 明日叶の頭の中に、松尾芭蕉の俳句が頭の中に浮かんでくる。夏草や兵どもが夢の跡……。
「夢でもないし跡でもない!」
 ついでに情緒を感じるような夏草もない。
 明日叶はもういつものように二人の間に入り、二人を宥め、教室を整頓するような気力はなかった。朝は特に弱い方でもないが、やはり、朝からこれは……。
「もう、いい加減にしてくれ!」
 叫んで踵を返し駆け出した明日叶に気づいた二人が、二人で教室を直し始めたのは、少し後の話。


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