愛という






 見つけた。
 やっと。
 ずっと探してた。
 そのために今まで生きてきた。
 見つけた。見つけた。

「……慧」
 小さく、名前を呼ぶ。彼が振り返るのを明日叶は期待していた。しかし、慧は振り返らず、ただ肩をぴくりと動かして、明日叶の存在を認識していることを示した。明日叶は更にもう一声かける。彼に、振り向いてほしくて。
「慧、こっち向いてくれよ」
 焦らないように、焦らないようにと思えば思うほどに焦りが滲む。折角鍛錬を積んでマニュスピカになったのに、これじゃあ何年も前の自分に戻ったみたいだ。強くなりたいとばかり願っていたあの頃の自分に。自分の弱さ故に大切な人を守れなかった自分に。道を誤らせてしまった、……。
 慧はこのまま明日叶を無視して行くべきか、それとも振り返るべきか、逡巡しているようだった。明日叶は何度でも名前を呼ぼうと口を開けたが、出てきたのは嗚咽だった。彼に再び会えた奇跡が、信じられなかった。後から後から涙が溢れてきて、慧、と呼んだはずの言葉は意味をなさない嗚咽となって零れ落ちる。気を抜くと、その場に膝をついて崩れ落ちてしまいそうだった。
「……明日叶」
 そうだ。
 この声だ。
 この声で名前を呼んでほしかった。ずっと。いや、違う。名前を呼びたかったんだ。自分が。もうどちらでもいい。どちらも叶ったのだ。明日叶は涙を腕で拭いながら、慧に一歩、また一歩近づいた。そして、いまだ背を向けたままの慧に、後ろから抱きつく。
 慧が息を呑むのが聞こえた。慧はマニュスピカに追われている身だ。そして明日叶はマニュスピカ。逃げられるチャンスなど、いくらでもあったはずなのに。明日叶はこれが最後のチャンスとばかりに腕に力を入れて、でもその力は、まだマニュスピカ候補生だった時のようにか弱いものだった。あまりに感情が溢れすぎて、力が入らなかった。それでも懸命に、慧を二度と放すまいとするように縋りつく。
「ごめん、慧」
 慧はいまだ無言だ。
「俺、慧にこうやって、謝るの、二度目だよな」
 一度目は魁堂学園に転入してきてすぐのことだった。慧、ごめん、と。何度も何度も謝ったのだ。そして、そこで慧の身に起こったことを知った。
「雨が、降ってた」
「……ああ」
 覚えててくれたんだ。明日叶は少しだけ希望を見た気持ちで話しかけた。
 暗い日だった。慧が学園を出て行くのをなんとか阻止して、でも明日叶は、最後の最後で、
 慧を信じきれなかった。
 あの時、慧を信じていれば。そうすれば慧に過ちを犯させずにすんだのに。明日叶は幾度も幾度もそう考えては首を振り、後悔したって仕方がないと自分を叱咤し、それでもこの行き場のない気持ちを抑えることはできなかった。全てが自分の責任のように思えてならない。全てが自分の過ちのように思えてならない。慧がマニュスピカに追われるようなことになったのは、自分のせいだ、と。
「慧、……ごめん。ごめん、慧っ。俺、信じるって言ったのに。信じろって、言ってくれたのに。約束……だったのに」
 胸がきりきり痛む。まだ昨日のことのように思い出す、ホークの顔。慧が撃たれた時の衝撃。パニックに陥った自分。信じきれなかった自分。銃声。肉が焼ける匂い。痛み。痛み。痛み。
 銃声。
「う、……っ!」
 思い出すだけで気分が悪くなってくる。
 慧の表情は見えない。慧に振り向いてほしい。でも自分が振り向けないようにしてる。縋りついて慧を逃がさないようにしながら、慧の表情が絶対に見えないようにしてる。
「俺あれから、ずっと慧とまた会うために生きてきた。慧を捕まえるために。それが俺の……自分への罰だから」
「……お前は、」
 慧はいきなり明日叶の腕を振り払って、振り返った。
 その衝撃に思わず明日叶はよろめく。そして慧の顔を見た。慧は、苦痛に歪んだ顔をしていた。ああ、何でまた俺はこんな顔を慧にさせてしまったんだ――明日叶は奥歯を噛み締めた。悔しさに、先ほどとはまた別の涙が溢れてくる。
「お前は、俺のことを忘れて生きるべきだった」
 何で、そんな、
 悲しいこと言うんだ。
 明日叶は頭をぶんぶんと振って慧を真正面から見つめた。違う、慧、俺は慧が絶対に忘れられないからここにいるんだ、慧のことが、
「好きだから」
 慧が一瞬、驚きのために瞠目した。
「俺、慧が好きなんだ。ずっとずっと。だから信じきれなかったことが余計悔しくて……、それで……!」
 涙のせいで声にならない。それがもどかしかった。もともと口下手だったが、今は伝えたいことがたくさんあるのに。言わなければいけないことが。それなのにこの涙というものが、邪魔をするのか。それならばこんなものはいらない。今すぐ体中の一切の水分をなくしてしまいたかった。
 明日叶は感情に身を任せて叫んだ。
「慧、俺はずっと慧だけを考えて今まで生きてきた。慧が……ホークのことを考えて生きてきたように。もう今更絶対に忘れられないんだ。俺は、もう、」
「……明日叶」
「慧がいないのが、死ぬより辛いんだ。慧が見えないのが、何より悲しいんだ」
 雨が降っているわけでもないのに、明日叶は自分の体がびしょ濡れであるように感じた。あの時みたいに。感情に心が追いつかなくてきりきり痛む。声が幻想の雨にかき消されないように声を張り上げていたが、やがて、息が切れて、疲れてしまった。
 大好きな人を、捕えるために追いかけることに、疲れてしまった。
「慧、俺を……俺を、突き放さないでくれ」
 慧はじっと、明日叶を見つめている。
「……なあ、慧。慧は今まで、俺のこと、何回考えてくれた? あの日から。何回、小林明日叶っていう奴のこと、思い出してくれた……?」
「明日叶、もう、」
「俺、ずっと、毎日毎日、慧のことずっと思ってた。ほんのちょっとでも、慧のこと忘れたことなんて、なかった。だって、慧は俺の好きな人で、俺の罪のかたちだから」
 涙が止まらない。涙のせいで全てがぼやけて見える。世界が歪んで見える。だから明日叶は、慧がいつの間にか自分の目の前にいることに気がつかなかった。
「明日叶」
 耳元で、声がする。
 声がしたかと思ったら、
「明日叶っ……」
 抱きしめられた。
 明日叶は束の間何が起きたのかわからなくて、ただぼんやり抱きすくめられていたが、やがて、おずおずと自分も慧の背中に手を回した。慧と再会した時から何年も時が経過していたけれど、慧は相変わらず慧だった。それは服装とか匂いとか、具体的なものじゃない。もっと根本的な部分で、慧は変わっていなかったのだ。
「明日叶、俺は……」
 慧が苦しそうに、まるで呻いているような口調で、血を吐くように言葉を口にした。
「俺は明日叶の、呪縛になっていたんだな」
 違う。明日叶はしかし言葉にできなくて、ぶんぶんと首を振ってそれは否であると主張した。
「慧、それは、違う! 俺は、慧に罪っていう重みを押し付けてしまったから、だから、これは俺の責任で、慧は呪縛になってるなんて、そんなことない……!」
 なんて拙い言葉。こんな言葉で伝わるのだろうか。明日叶はそれでも一生懸命に言葉を紡いだ。それしかもう、方法がなかった。
「……逃げないで。慧」
「明日叶」
「もう逃げなくて、いいよ。ゆっくりした場所で生きよう。二人で」
 慧が体を離した。
「それは、できない」
 どうして、と食らいつくと、慧は二人で生きることができるはずがない、と明日叶の言葉を一蹴した。そして、次に処分、と口にした。
「俺はマニュスピカに追われている身だ。捕まれば当然それなりの処分が下される。ホークを殺した罪と、逃げ続けた罪と。マニュスピカに関する記憶は恐らく……抹消される」
 慧は続けた。俺は明日叶と共に過ごしたあの一ヶ月間の記憶を消される。明日叶にとっても俺にとっても、大事な記憶が消される。
 明日叶は咄嗟に叫んだ。
「それが何だって言うんだ!」
 明日叶は慧の腕にしがみついた。
「俺は慧をずっと、ずっと愛してる。慧の記憶が消えたって、その気持ちは変わらない。だから、……だから、慧!」
 ああ、うざったい涙。
「俺を好きになってくれよ! 記憶が消えても消えなくても。好きに、なってくれよ。記憶なんかに左右される感情はいらないから。誓ってくれよ。俺、絶対慧を見捨てないし……信じる、から」
「…………」
 慧はみっともなく腕にしがみついて泣きながら叫んでいる明日叶の目を見つめた。その言葉の真偽を推し量るように。信じる。当然この言葉は、チームグリフにいたころに言った言葉とは重さも言葉の響きも、全然違う。その言葉の奥に隠された明日叶の決意を、慧は確かめているのだ。
 じっとそのまま、長い長い時間が過ぎた。もっともそれが実際には何分、いや、何十秒のことだったかなんて、明日叶にはもうわからない。
「明日叶」
 名前を呼ばれた。
 慧はそれからぐいっと腕を引き、その腕を掴んでいた明日叶はよろめいて慧の胸の中に倒れこんだ。その明日叶の顎を捕まえ、上を向かせると、慧は静かに明日叶の唇に自分のそれを重ねた。
 優しいキスだった。
 こんなキスは……あの時以来だ。
 思い出したくない思い出と一緒に引っ張り出されてくる、力強い抱擁と甘く優しいキス。
 唇が離れていっても、まだ明日叶は呆然としていた。突然逆戻りした時間の針に、心がついていけなかった……否、明日叶の時間はあの時のまま止まっている。だから、忌々しい思い出の中に見つけた唯一の愛しさに、どうしていいのかわからなくなったのだ。
「明日叶、俺は今でもお前のことを愛してる。マニュスピカから逃げることを決意した時からずっと、明日叶を忘れたことなんてなかった。……忘れ、られなかったんだ」
 もう、慧の声は苦しそうではなかった。それに安心する。
「これからの逃亡生活を考えると、明日叶の記憶が重い鎖になることはわかっていた。だから俺は忘れようとした、明日叶を。でも……忘れられなかった。チームグリフのこともマニュスピカのことも自分の中でケジメをつけることができたのに、明日叶のことだけ、忘れられなかった」
 穏やかな慧の言葉に聞き入る明日叶の胸が、少しだけ痛んだ。重い鎖。柔らかく発せられた言葉なのに、すごく、すごく痛い――。
「会って確信した。どうしようもないくらい、俺は明日叶が好きなんだ。だから、忘れられない。……簡単な話だ」
「慧、それ、は、」
 慧は息を吐いた。それは覚悟の一息だった。
「明日叶、俺は、お前を信じる」
「慧……」
「俺がたとえマニュスピカや学園にいた頃の記憶を一切消されたとしても、俺のことを愛したままでいてくれる。明日叶のその言葉を、俺は信じる」
 言葉が出なかった。
 慧は、自分を信じきれなかった男のことを、信じると言ってくれているのだ。それがどんなことか、明日叶にはわかる。明日叶は言葉にならない声で、ありがとう、と言った。伝わったかはわからないけど、慧がぎゅっと抱きしめてくれたから、きっと、伝わったのだろう。
 明日叶も慧も、呪縛から、今、
 解き放たれたのだ。


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