両腕広げて君を待つ ぼんやりしながら、静一郎を待っていた。 普段の明日叶ならきっちりと学園指定の学生服を着こなすのだが(本当は着なくてもいいのだが、表向きは生徒ということになっているので着ているのだ)、ここ、理事長室では別だ。ワイシャツになりボタンを何個か外すという、よく言えばラフ、悪く言えばだらしない格好で、じっとしてぼんやりと仕事を終えて静一郎が帰ってくるのをただひらすら待っていた。たまに明日叶は、待ちながら、静一郎さんがいなければ俺は何もできないのかと歯がゆい気持ちになる。ここにいることさえ、静一郎さんが導いてくれたことだ。 「早く帰ってこないかな……」 一人だとやはり寂しい。窓から生徒たちの声が響いてくるのがそれを煽る。明日叶はソファに横になりながら、目を瞑った。疲れているんだ、と、自分に言い聞かせながら。 その時。 ノックの音。 静一郎は理事長室に入る時ノックなんてしないから、恐らく魁堂学園の生徒だろう。明日叶は無視を決め込んで、しかし一応しっかり制服を着た。襟を直しているところで、ドアの向こうの誰かが無遠慮に理事長室に入ってきた。まるで、返事がないことを望んでいたかのように。 理事長室に無断で入り込んできた招かれざる客は――明日叶が思わず息を呑むほど――意外な人物だった。 「……慧?」 懐かしい人の姿に、明日叶は胸に痛みを覚えた。それを明日叶は来客が理事長ではなかったからだと決めつけた。ぎゅっと胸を一度押さえて、慧がここに来た理由にあれこれ思いを巡らせてみたが、結局結論は自分に行き着いてしまう。魁堂静一郎に用がないのなら、慧は、……。 「……明日叶」 慧も、少し緊張しているようだった。何日ぶりに言葉を交わすだろう。窓からチームグリフを見かけることは幾度となくあったが、こうして言葉を交わすのは随分久しぶりだ。きりきりきり。うるさい。きりきりきり。胸が軋む音が頭の中に響く。どうして、こんなに、痛いんだろう? 「俺に、何か用なのか」 推測を口にする。すると案の定慧は緊張した面持ちを一層強ばらせた。同時に、何かを決意するように瞳が鋭くなった。慧はその胸に何を秘めているのか。明日叶は知ろうとして、結局、それに手が触れる前に諦めてしまった。慧が知りたい。確かに、そう思っていたはずだったのに。 「明日叶、聞いてほしい」 「慧?」 慧が誰かに話を聞いてほしいと自分から喋るなんて、この学園に来てからは絶対になかったことだ。明日叶はまず戸惑って、とりあえず沈黙を通して肯定とした。慧が一歩、近づく。ソファに座ったままの明日叶に。一歩、一歩、確実に。 少しだけ距離を置いた場所に慧は立ち、静かに明日叶に声をかけた。 「……明日叶は、本当にこれでいいのか」 明日叶はその言葉の意味が図りきれずに聞き返す。 「どういう、こと」 「魁堂静一郎の犬のままで、という意味だ」 慧が冷たく言い放つのに反発して、明日叶は「犬ってなんだよ。俺は犬なんかじゃない」と声を荒げた。言ってしまってから"なんか"と言っては犬に失礼かと思って、そして次にチームグリフにいた毛むくじゃらの犬を思い出した。場違いだとは自分でもわかっていたが。 「犬じゃなければ、駒だ」 「静一郎さんを悪く言うなっ……!」 慧は押し黙った。唇を噛んで、何かを堪えるような顔をする。明日叶の心の軋みもまた、激しくなる。 「……明日叶」 いつもなら絶対他人に自ら寄り付こうとしない慧が、拒絶されても尚歩み寄ろうとしている。明日叶は戸惑って、視線を床に落とした。冷たい床は、慧の真摯な眼差しから逃げようとしている明日叶を非難しているようだった。 いつの間にか、慧が目の前にいる。目を合わせられなくて俯いたままでいると、慧の手が目元に触れた。――優しい手つきだった。 「魁堂静一郎は、下劣な男だ」 明日叶が思わず顔を上げると、慧の、切れ長の目とぶつかった。す、と細待った瞳は、明日叶の瞳を掴んで離さない。視線を外すことができない。 「甘い部分だけ覗かせて、己の欲望は全て隠す。そうして自分だけが理解者とばかりに近づいて、心を掠め取る。……そういう男だ」 「……」 明日叶は何も言えずにただ浅い呼吸を繰り返した。そんな人じゃないと叫ぶことができるほど静一郎のことを知らないし、慧の口調が確信を持って言っているそれであったのも気になった。 「慧は……どうして知ってるんだ」 慧は少し躊躇ってから、「俺は魁堂静一郎の犬のなりそこないだからだ」と答えた。しかしそのことについては言及されたくないらしく、明日叶がそれについて何か言う前に素早く「だから」と言った。言いたいことはこの先にある、とでもいうように。 「戻って来い。明日叶」 明日叶はにわかに混乱した。戻るって、どこへ? チームグリフへ? 「もう遅い」 「何が遅いんだ」 「俺はチームグリフには戻れない。やっていけない。俺はもうマニュスピカだ。今更候補生なんかに戻れない。それに、もし戻ったとしても……静一郎さんほどの手腕の人がいない」 慧は小さく息をついた。決意の色はまだ消えてはいない。 「明日叶、明日叶はそれで、幸せか」 「今は、少なくとも今は、満足してる」 「あいつに騙されて、利用されているとわかっても」 「そんなのまだわからないだろ」 「駒の一つしか考えられていないとわかっていても」 「そういうことは本人に聞く」 「体のいい欲望の捌け口にされていても、明日叶は幸せなのか!」 「――!!」 明日叶の中で、初めてとても激しい憤怒がこみ上げてきて、衝動のままに、慧の顔を思い切りひっぱたいた。 慧をひっぱたいたことなんて初めてだ。ずっと自分の傍にいてくれた慧を。これは恩を仇で返すことになるだろうか。慧は自分のことを、酷い奴だと思っただろうか。明日叶は様々なことを考えながら、きりきりきりきり、心が啼く声を聞きながら、避けることだって、できたはずなのに、と、拳を握り締めた。 慧は少しだけ驚いたような顔をすると、しかしそれ以上慧の表情が動くことはなかった。明日叶はその顔に背を向ける。 「……出て行ってくれ」 感情を押し殺した声で言ったつもりだが、隠し切れずに震えてしまった。慧は動こうとしない。 「出て行け!」 悲鳴のような声で叫ぶと、慧はようやく理事長室から出て行った。残された明日叶の脳裏にはなぜか、慧が身につけていたバングルが残っていた。 多分、明日叶の腕には、もうないからだ。 **** 慧が作戦室のドアを開くと、まず、亮一が「お疲れ様、藤ヶ谷」と慧をねぎらった。しかし、メンバーの表情は皆一様に微妙だ。眞鳥は微笑を浮かべていたが。 「藤ヶ谷、アンタもデリカシーがないですねぇ」 慧は襟につけていた盗聴器を外して桐生に返しながら、何も言わずに……否、言えずに黙っていると、ヒロが「何であんな直球で言っちゃうワケぇ!? ほんと藤ヶ谷さん、信じらんないっ!」次いでディオが呆れた顔で、「だから俺が行くっつったんじゃねえか」。 「触れられたくないことをつっついて動揺させんのも確かに手だけどよ、今はまずいだろ」 そんなことを言った後、ディオが慧にしか聞こえない声で「本音が出たな」と独り言のように呟いて思わず睨む。 太陽や興は、そもそも慧の発言がどうして問題なのか理解できずにいたが、みんなに便乗して何か思い思いに喋っている。 「まあまあ、慧も最善を尽くしたんだから、みんなそう責めるなよ」 亮一がひとまずその場をおさめたが、後に残ったのは重苦しい沈黙だった。桐生がパソコンを操作する音だけが響く。 「……魁堂静一郎が理事長室に帰ったようだな」 みんなピクリと反応するが、その事実だけわかったって仕方がない。 「まあ、今回は揺さぶりをかけることができただけでも上出来だろう。下手すれば話をすることさえ拒まれるかも知れなかったからな。……次もお前が行くか、藤ヶ谷」 慧は短く「そのつもりだ」と答える。これだけ非難されても自分が行くと言う奴を誰も止められるわけがないと、メンバーは呆れながらも笑っていた。みんな、信じているのだ。互いを。 「頼むぜ、藤ヶ谷」 「頑張ってくださいっス、藤ヶ谷センパイ!」 「うむ。がんば!」 亮一はその様子を見て満足そうに数回頷くと、ホワイトボードに向き直った、そこには、今回のミッションの作戦が細かに書かれていた。 『極秘ミッション:明日叶をスティール!』 亮一はそこに書かれた内容を一番上から綺麗に消していく。誰かに見られる前に消してしまうのだ。 タイムリミットは、理事長が気づいてしまうまで。もしそうなったら……バッドエンドだ。 「よし! 気を引き締めていこう」 皆、各々に頷く。 「絶対に――明日叶を盗み出すんだ」 **** 「ジャディード……ですか?」 慣れない言葉を口にすると、静一郎は明日叶の髪を優しく梳きながら頷いた。 「そうだよ。次はそこで、ミッションがあるんだ。……一緒に行ってくれるね」 明日叶には、慧と話をしてから心のどこかに迷いが生まれていた。そしてそんな自分が許せなかった。だから明日叶はそんな自分の迷いを打ち消すためにもすぐに頷いた。 「どんなミッションなんですか」 「君には前、グレゴリー・ホークという人物の話をしたことがあったね」 「ああ、俺が前美術館で会った人ですか」 静一郎は頷いた。 静一郎が説明することには、次のミッションはマニュスピカの裏切り者で逃亡を続けているホークを捕えることらしい。……表向きは。静一郎はそこまで話すと、すっと目を細めた。そして本当の目的は他にある、と言って、声音も心なしか変わった気がする。 「グレゴリー・ホークを、暗殺する」 明日叶は息を呑んだ。 暗殺。暗殺? 「これは私や、私の考えに賛同してくれている人たちの意志だ。捕獲に拘っているからいつもマニュスピカはホークを取り逃がしてしまう。だから私は、ホークを殺す」 殺す。 「それは、許されることなんですか?」 殺す。それは人の命を奪うということだ。たとえ相手が裏切り者でも、卑劣な奴でも、それでも命を奪うなんてことがあっていいのか。明日叶はまた心が揺らぐのを感じた。 「こうしなければいけないんだ。ホークにもうこれ以上神聖な芸術を汚されないために。……明日叶なら、わかってくれるね」 静一郎は明日叶の揺らぎを見抜いていた。そして、明日叶が納得できるような理由を用意する。芸術を守るため。これ以上ホークの金儲けの道具にさせないため。明日叶は自分を唯一受け入れてくれた静一郎を裏切りたくないという強い思いがある。そうだ、芸術のためだ。全ての美しき芸術品のためだ。明日叶はそう自分に言い聞かせて、心の揺らぎをまるきり無視して、「一緒に、行かせてください」と申し出た。 静一郎はにっこり笑う。 「それじゃあ、今から作戦を説明するから、よく聞くんだ」 「はい」 「ああそれと、今回はチームグリフもジャディードでミッションがあるんだが、」 チームグリフ。その言葉にどきりとする。先日の慧の言葉が蘇って頭の中でループする。それを静一郎に悟らせてはいけないと、明日叶はなんでもないふりをした。 「元チームメイトだから気が緩んでしまうかもしれないが、作戦については絶対に口外はしないこと。いいね」 明日叶は慎重に頷いた。言われなくても口外などするつもりはないが、確かに、チームグリフのメンバーを見たら自分はどんな風に反応するのかわからず、少し怖い部分もある。まさか、今更グリフに戻りたいとは思わないだろうが、それでも、ほんの少しだけでも生死を共にした仲間だ。そしてその中には、慧も、いる。 明日叶は動揺を振り払おうと、必死で静一郎の作戦の説明に耳を傾けた。 「……そして、ここに来たら……明日叶。君に大事なことを頼みたい。これは、君にしかできないことだ。引き受けてくれるかい」 「もちろんです」 「君に、囮になってもらいたい」 囮、ですか、と言うと、その声に不安が滲んだのを感じ取った理事長が、「もちろん、君の安全は我々が保障する」と言った。「ただ、ホークをおびき寄せるだけだ。そうしたら後は私たちが始末する」 始末。明日叶は少しだけその言葉に震えた。残酷な言葉だ。 「それで、俺は、どうすれば」 「簡単だ。ホークの前にただ現れるだけでいい。偶然を装ってね。相手は君がトゥルーアイズを持った小林明日叶だとすぐにわかるだろう。そうしてホークは案内するはずだ。遺跡へ」 「遺跡?」 静一郎は幻の王国、フィトナとその財宝について簡単に説明をした。マニュスピカの創始者が作った鍵のことも。その鍵を見分けるにはトゥルーアイズが必要で、そしてホークは遺跡の扉を開きたがっている……。 「君には発信機をあらかじめつけておく。遺跡の場所もこちら側で確認できる。そうしたら後は、ホークを殺すだけだ」 「……わかりました」 静一郎は微笑んで、いい子だね、と明日叶の頭を撫でた。手つきはすごく優しいのに明日叶は、なぜか慧の"駒"という言葉が頭にひっついて離れなかった。駒? 違う。トゥルーアイズの能力を最大限に生かしてくれようとしているだけだ。明日叶は目を瞑ってその言葉を意識の外に追いやろうとした。自分の中に僅かな焦りが生まれる。 それから逃げたくて、静一郎の名前を甘く、呼んだ。 **** 「チャンスだ」 亮一は意気込んで話した。 これは明日叶を取り戻すチャンス、ホークを捕まえるチャンス、フィトナの遺跡の扉を開けるチャンス。亮一が目を輝かせて話している時は大抵皆つまらなそうにしているのだが、今回ばかりは違った。真剣に話を聞いている。 「じゃあ、僕らが今度行くジャディードってとこに、明日叶ちんも別のミッションで来るってこと?」 「そういうことだな」 「うっひゃあー、すんげー偶然だ!」 「どこから手に入れたんだよ、そんな情報」 ディオが胡散臭そうに言う。それに特に気を悪くした様子もなく、亮一はにこにこと「俺たちのミッションはもちろん理事長から。それで、明日叶と理事長がジャディードに行くって話は桐生が手に入れてくれたんだ」と答えた。桐生がふんと鼻を鳴らす。桐生は優秀なハッカーだ。 「明日叶と理事長が参加するミッションってのは、どんなんなんだ?」 「どうやらグレゴリー・ホークを捕獲するという作戦らしい」 慧がホークという名前に反応する。 「はん? 俺たちはホークの目を逸らさせる当て馬ってわけか」 「まあまあ、ディオ、ミッションを与えてもらっただけでラッキーなんだから、そう言うなよ」 「そうそう、例えそのミッションを与えた相手が、俺らの大嫌いな人、でもね」 眞鳥がいつものように微笑を顔にたたえながら言うと、空気が少しだけ変わった。みんなの顔つきが変わったのだ。そして、魁堂静一郎。彼に静かな怒りを湧き上がらせる。 ――慧には謀があった。 このミッションには、様々な目論見が交錯する。チームグリフの、ジャディードでのミッション、そして明日叶を取り戻すというミッション、願わくはフィトナの遺跡の扉を開けたいという願望。そしてマニュスピカ側のジャディードでのホーク捕獲のミッション、魁堂静一郎率いるホーク暗殺のミッション。 そしてこれらのミッションが全て成功することは――ありえない。 「……藤ヶ谷。お前、思い切り眉間にしわ寄せてるぞ」 ディオが呆れたように言う。そして、慧に少し顔を近づけ、 「お前、明日叶のことになるとすぐ表情に表れるな。そんなんで大丈夫なのか、本当によ」 「……問題ない」 「その自信はどこから来るんだ」 「うるさい、お前には関係のないことだ」 ディオははあ、とため息をついた。明日叶を取り戻したい気持ちは同じだから、ディオはそれ以上何も言わなかった。 「とにかく、こんな絶好の機会を絶対に無駄にできない。いや、そもそも、無駄にしてしまったらチームグリフそのものが終わりだ。どんなミッションも、確実に、こなすこと。いいね?」 「亮一クンは律儀ですねぇ。言われなくてもそんなこと、みんなわかってるでしょうに」 眞鳥は笑いながら楽しそうに呟いた。 目には皆、光。 **** ジャディードはさすがに日本とは違い、暑かった。明日叶は日差しの強さに驚きながらも、必死で静一郎に遅れを取らぬよう歩いた。静一郎は日差しなんてまるでないかのように平然とした顔で歩いている。もちろん、後ろに続くマニュスピカたちもだ。 この、静一郎の後ろについて歩いているのが、恐らくは静一郎の考え方に賛同した……すなわち、ホーク暗殺推進派だろう。 明日叶を含むマニュスピカは、ホテルに案内された。一人一部屋があてがわれ、明日叶は一人になってようやく落ち着くことができた。肩の力を抜いて初めて、今まで緊張していたことに気付いたのだ。どうしても、異国というのはいるだけで筋肉が強ばる。 少ない荷物を部屋の隅に置いて、自身はベッドに座り束の間の休息をとっていると、ドアがノックされた。「明日叶、いいかい?」……静一郎だ。明日叶は起き上がり、休む暇などないのだということを思い知らされながら「どうぞ」と言った。 静一郎はいつものスーツとは違い、ミッション用のラフな格好をしていた。明日叶は姿勢を正して静一郎を迎えると、早速静一郎に「緊張してるね」と指摘され、そんなにわかりやすかったかと明日叶は赤面する。 「すみません、結構、ミッションをこなしているはずなのに、慣れなくて……」 「いや、緊張自体は悪いものじゃないよ。それがミッションに支障をきたさなければね」 さすがに静一郎は明日叶に釘を刺すことを忘れなかった。プロだから、優しくするだけじゃ駄目なのだ。ミッションは成功させるためにある。成功させなければならない。 「はい。頑張ります」 静一郎は少し笑って明日叶の肩を軽く叩いた。 「まずは、力を抜いて」 「……すみません」 静一郎は依然笑っている。 かと思ったら、鋭い目つきになって明日叶に顔を近づけ、声を潜める。 「明日の動きはわかってるかい?」 「あ、はい」 「君の役目は重要だ。緊張しているようだからあまり言いたくないけれど、失敗はできないからね。もし失敗すれば、マニュスピカから排斥される可能性だってないわけじゃない」 「……はい」 「頼んだよ、明日叶。君にしか……できないことだ」 君にしか、できないこと。 小林明日叶という人物にしか、できないこと。 その言葉はいつも明日叶に魔法をかける。子供の頃は邪魔でしかなかったトゥルーアイズが誰かのために役立つ。開けた未来が目の前にある、そんな気がしてならない。 静一郎はおやすみのキスをして部屋から出て行った。 失敗できないミッション。 どうしてだろう。すごく、不安だ。 明日叶は予定通り、ホークに捕えられるために、待機していた。 明日叶に課せられたミッションは、明快。ホークのもとに行き、捕えられ、そしてフィトナの遺跡まで案内されること。その間、もちろん手荒な扱いを受ける場合もある。しかし、明日叶は静一郎にはなるべく時間を稼ぐよう言われているので、痛めつけられる覚悟も少しはしなければいけない。撃たれた時のことも考えて、防弾チョッキも用意してある。 明日叶と同じく待機している極秘で動いているホーク暗殺部隊は表情を隠している。緊迫した空気は明日叶にも伝わってきて、明日叶はぎこちなく深呼吸をした。そして黙って銃を持っている人の数を数えていると、 「……?」 見覚えのある、人。 「慧?」 小さく名前を呼ぶと、名前を呼ばれた彼は静かに振り向いた。……慧だ。間違いない。明日叶が慧の顔を間違うわけがない。 それは、慧とて同じこと。 「……明日叶」 明日叶は何も言えずにただ黙って慧を見つめた。あまり会いたくないと思っていた人にまさに会ってしまったのに、明日叶の頭の中に浮かんできたのは、「もっと、ずっと見ていたい」という想いだった。疑問も何も思い浮かばない。 先に視線を逸らしたのは慧だった。周りを窺うように僅かに周囲に視線を走らせると、明日叶に顔を近づけた。 「何でもないような顔をしろ。魁堂静一郎が見ているかも知れない」 見ていると何かまずいのか、と思ったが、とりあえず頷いておいた。それから思い出したように「どうしてここにいるんだ」と尋ねる。 「魁堂静一郎に、暗殺部隊に入るよう言われた」 「静一郎さんに?」 確かに慧の身体能力はすごいものだし、そもそも静一郎は慧の血の繋がってない父だが、静一郎がそれだけで慧を頼るのはどうも納得がいかない。それに慧も、以前話した時はまるで静一郎のことが大嫌いだというようなニュアンスを含んでいたが、違ったのだろうか。――いや、違わないだろう。じゃあなぜ慧は静一郎の頼みを聞き入れたのだろう? 「どういうことだ?」 慧は次の言葉を、口にするのを躊躇った。しかし、明日叶の目を見て、静かに……感情を消した声で言った。 「明日叶」 「……うん」 「俺の両親は、……死んだ」 「…………」 辛うじて、え、とだけ口にする。 「殺したのは、ホークだ」 頭がついていかなかった。明日叶はただ瞠目して慧を見つめるだけで、慧はそんな明日叶を、黙って見つめている。 「魁堂静一郎はそんな風にして親がいなくなった俺を引き取った。そしてホークへの復讐をほのめかせたんだ。……だから俺は今、ここにいる」 明日叶は何とか「嘘……だろ」と言った。慧は何も言わない。明日叶とてわかっていた。慧が言っているのは、本当のことだと。慧の言うことが本当なら、慧が静一郎の養子になったのは、慧の両親がホークに殺されたからということで、それはつまり明日叶がよく知っている優しいおじさんやおばさんがいないということで、もう、どこにも……――。 「……明日叶?」 慧が僅かに焦ったような声を出す。わかっている、こんな所で……泣くのはまずい。不審がられる。でも、涙は意思とは関係なしに流れてきた。どんどん、会えないとわかるほどに。 そして、唐突に思い出した。 静一郎と話す、慧の姿。慧に近づこうとして、慧をどうしても知りたくて、静一郎に聞こうとした。そうだ。確かに明日叶は、慧が知りたかったのだ。その内に秘めた悲しみや苦しみを。背負った重みを。 「慧、」 今すぐ慧を力いっぱい抱きしめたかった。周りには人がたくさんいる。それでも明日叶はどうしても自分の気持ちを伝えたくて、ぎゅっと慧の手を握った。 「……明日叶?」 慧は僅かに戸惑っている。しかし、明日叶の手を振り払おうとはしない。明日叶は小さく、呟くように言った。 「俺は、ずっと……知りたかった」 「……」 「ありがとう。話して、くれて。慧、俺っ……」 言葉にならない。唇を噛み締めて、明日叶はまた溢れ出てきそうになる涙をこらえる。顔を上げると、慧は笑っていた。 あ。と、明日叶は気付く。 見たことがある、この笑顔。 とても……懐かしい……。 「泣いてくれるのは、お前だけだ」 「慧……」 自分がよく知る慧が、目の前にいる。明日叶の胸が震えた。もっと、もっと触れたい。そう思った時、静一郎が近づいてきて、明日叶にそっと告げた。「明日叶、時間だ」。それだけ言うと静一郎は何も言わずに離れていく。ふと慧を見ると、慧は静一郎を睨みつけていた。そして、明日叶、と名前を呼んで、一言。 「俺を、信じろ」 質問は許されなかった。慧は何も言わせないように離れて行ってしまったからだ。明日叶も歩き出す。ホークがいるという、オークションの会場へ。 客を装っているから、服装はスーツだ。動きにくいが、そもそも明日叶に課せられた役割はあまり動くものではないので気にしていない。しかし、慣れない地で、慣れない服を着てこなす重大なミッションは明日叶を緊張させるのに十分だった。 とりあえず、事は順調に運んだ。明日叶は無事ホークに捕えられ――無事、という表現が適切かはともかく――伝説の国、フィトナの遺跡とやらに連れて行かされた。 フィトナの遺跡は、明日叶が思っていたよりも厳かな場所だった。 薄暗いのに扉が発光しているように見えるからそんなに暗いと感じない。しかし、素晴らしいと思う気持ちよりも、本当にこれでいいのだろうかという気持ちの方が強かった。いいのだろうか。本当に。――殺人を許容しても。 このまま順調に行けば、ホークは殺されてしまう。人が一人、死ぬのだ。命が一つ、尽きてしまうのだ。 いくら静一郎でも、犯罪は犯罪だ。……いや、違う。"人殺しは人殺し"というべきだ。犯罪ならもうとっくに、マニュスピカは犯している。でも、人殺しは同じ犯罪でも違う。マニュスピカの犯罪とは一線を引いている。 慧の顔が思い浮かんだ。 殺しなんてやらせていいのか。慧に。 優しくて、あんなに自分を助けてくれた慧に。殺しを。本当にさせていいのか。慧に人殺しのレッテルが貼られてしまっても、いいのか。 いいわけない。 「……そんなの、駄目だ」 独り言はホークには聞こえなかった様子だ。 どうやらホークはアメリカにいた時と、学園に来てすぐ明日叶を襲った犯人らしかったが、その可能性があると静一郎からあらかじめ聞かされていたので、あまり驚かなかった。ただ、時間稼ぎのために適当に驚いたふりをして、いろいろ質問した。 しかし、明日叶が時間をなるべく多く稼ぎたいのに大し、ホークは早く用事を済ませたいのだ。ホークは部下にフィトナの扉の鍵を開けさせるために、鍵を持ってきた。鍵は三つ。一見すると卵のようなその鍵は、フィトナの最後の秘宝を守るための知恵が具現化したようだった。 「正しい鍵を選べ。トゥルーアイズ」 まだ時間を稼ぎたい明日叶は、縄を外すように言って、それから間違った鍵を選ぶとどうなるのか尋ねた。もちろん、そんなことは知っている。間違った鍵を選んでそれをはめた瞬間、爆発するのだ。だから絶対に間違った鍵を選んではいけない。 その時。 視界の端で、何かが光った。 何? ホークは気付いていないようだった。明日叶にはっきりと認識できるものだったのだから、ホークが気付いてもおかしくはない。それなのに、ホークどころか、周りにたくさんいるホークの部下さえも、あろうことか一人も気付かない。気付いたのは明日叶、一人だけ。 明日叶の目は、確かに捕えた。煌めく光を。 恐らくそれは、銃だ。そしてそれを握っている人物は……。 慧。 なぜか確信があった。 もしかしたらこれも、トゥルーアイズの力なのかもしれない。だとしたら、なぜ? 今頃。静一郎と一緒にこなしたミッションでは、こんなこと一度もなかった。 あれは、慧だ。わかる。 慧が、銃を握って、狙っている。誰を? ホークを! 「慧……」 「どうした。早く選べ」 ホークの部下が、明日叶の背中に銃をぐいぐい押し付けてくる。ホークは、明日叶の目さえ残っていれば四肢がどうなろうと全く意に介さないのだ。 駄目だ。撃たせたら。駄目だ。でも、もう明日叶にはどうすることもできない。 今は明日叶はホークと慧の間に入るようにして立っている。鍵を選ぶと、間違った鍵を選んだ可能性を考えてホークは明日叶にはめさせようとするだろう。つまり、明日叶は扉に向かって動く。そうしたら慧はきっとその瞬間、ホークを撃つ。 どうする。このまま黙っているわけにもいかない。 慧、慧、お前は撃つのか? 憎きホークを。明日叶は心の中で慧に問いかける。ぐっと奥歯を噛んで、どうするべきか考える。 俺を、信じろ。信じろと慧は言った。それはどういう意味なのだろう。俺はどうすればいいんだ。明日叶は鍵の一つ一つに触れながら必死で考えた。信じろ。人殺し。撃つ。殺す。俺を、信じろ。信じろ。慧は人殺しになるのか? そっちにばかり気をとられて、とても正しい鍵を選べそうにない。トゥルーアイズは集中力をかなり使う。集中の方向が鍵に向いていない時点で、真実が視えるはずがない。どうする。 ………………。 ……………………。 ……信じよう。 慧を、信じよう。 「早く選べ!」 いらいらしたように語気を荒げてホークが叫ぶ。どちらにしろ、明日叶にもう正しい鍵を選ぶことはできない。ホークが明日叶に近づき、銃のグリップで明日叶を殴ろうと、振りかぶった時。 チャンスだった。 明日叶は勢いよくしゃがみこんだ。 銃声。 思わず目を瞑った明日叶がおそるおそる顔を上げると、ホークは倒れていた。というか、押さえ込まれていた。恐らく、マニュスピカの人だろう。 そして明日叶に銃を突きつけていた部下たちは、一人残らず慧にやられていた。全員床に伏している。後から来たマニュスピカの人たちが素早く、手際よく彼らに手錠をかけていく。ホークも同じようにされていた。慧の撃った弾は、ピンポイントで拳銃を弾いたらしかった。インターポールの人が拳銃を拾っている。 「明日叶っ」 名前を呼ばれて慧を見る。慧が明日叶に近寄る。 「慧……」 俺、お前を信じたよ。……そう言おうと口を開いた瞬間、 抱きしめられた。 明日叶は何も言えなくなってただ、慧の抱擁を受けた。そのうち、おずおずと慧の背に手を回して、明日叶も同じように慧を抱きしめる。周りにはマニュスピカやインターポールの人がたくさんいるのに。でも、どちらもわかっていて、離れようとはしなかった。 「慧」 「……」 「慧、俺、慧がわかったんだ。慧がどこにいて、どこで銃を握っているのか」 「ああ」 「こんなこと、初めてだったけど。……でも、わかったんだ」 「ああ。……明日叶」 「何、慧」 慧は耳元で、囁いた。 まるで、血を吐くように。 「好きだ」 「……すき?」 しばしその意味が理解できずに、その言葉を反芻する。少し体を離して慧の目を見つめ、そして、好き、という言葉の意味を、考える。 「うん。俺も、好き。俺も、好きだよ、慧っ……」 もう一度、ぎゅっと抱きしめる。 その時背後でどさ、という音がして振り返ると、そこには、 縄をかけられた静一郎がいた。 「静一郎さん……!」 明日叶が驚いて慧から体を離すと、静一郎は忌々しいような表情をして「なぜ私が捕えられなければならない」と吐き捨てた。その言葉に、慧が静一郎とは反対に、感情を一切覗かせない声で言う。 「総理事長の指示だと、さっきも説明してやっただろう」 「私は納得していない!」 静一郎は慧から視線を外し、明日叶を一瞥した。 「それに、どうして私だけがこうして縄をかけられている? 小林明日叶も共犯者だ。なぜ捕えない!」 「……っ……」 明日叶が手をぎゅっと握り締めて何かに、今明日叶の中に流れてきた何かの感情に耐えた。やはり、駒、だったのか。明日叶も。ただの、静一郎の、駒にすぎない……。 慧は尚も感情のこもらない声で言う。 「明日叶に使用した毒物はもうわかっている。明日叶は魁堂静一郎に無理やり従わされた可能性があるとして、今すぐにここでは捕えられない」 「そんな、馬鹿なっ……!」 静一郎は明日叶と慧を交互に睨みつけて、「私は認めない」と何度も呟いた。 ああ。この人は、 「静一郎さん」 静一郎は顔を上げて明日叶を見つめる。 「明日叶、君は本当にそれでいいのか? 私がこんなことになっても、君は、」 「ごめんなさい」 静一郎の言葉を遮るようにして、明日叶が頭を下げる。 「……あなたは、俺に希望をくれた。トゥルーアイズという力に振り回されて、ここに来てもどう使ったらいいのかわからずにいた俺に、希望をくれた」 静一郎は何も言わずにただ明日叶の顔を無表情に見つめている。 「でも、……慧や俺を駒にして使って、人を殺そうと計画することが、希望に繋がるでしょうか」 「そんなの、奇麗ごとだ。そういうことを言っているから、あんな奴が野放しになっている」 静一郎は先ほどホークがいた場所を睨みつけながら言った。 「でも今、捕まえました」 明日叶が不器用に笑うと、ふ、と、静一郎から力が抜けた。何かを諦めたようでもあった。今はそんな不毛な口論をしても無駄だと悟ったのかもしれない。しかし連れて行かれる間際に、静一郎は慧を見て言った。 「やってくれたね、慧。最初から裏切るつもりだったんだろう」 「…………」 「チームグリフの人たちは、知っているんだろう。このことを」 慧は沈黙を守っている。 「明日叶のためかい」 慧はやはり答えない。静一郎はため息をついて、今のところは大人しく連行されていった。 「……慧」 誰もいなくなった遺跡の前で、明日叶は慧の名前を呼んだ。声が反響して、なんだか恥ずかしい。 「ありがとう、慧」 「……明日叶」 慧は明日叶に手を伸ばす。慧の手が、明日叶のこめかみに触れる。少しずつ、顔を近づけて、 ……その時、慧の腕のバングルの発信音が鳴った。慧は憮然として応答すると、バングルから眞鳥さんの声が聞こえてきた。 「ハイハイ藤ヶ谷、わかってますかー? こっちは全部、聞こえてるんですからねー。まあ、どうしても続けたいというなら止めませんけどねぇ」 慧は小さく舌打ちすると通信を切って、音を立てないように軽く明日叶の頬にキスをした。 「聞こえてる……? えっ!? 聞こえてる、嘘!?」 明日叶ははっと気付いて慧の襟元をぐいっと引っ張った。するとそこには、小型の盗聴器が仕掛けられていた。道理で、時折慧が襟元に向かって何か話しているわけだ。 「……今までの、全部、聞こえてたのか……?」 好きだとお互いに告げあった時も? 「嘘……だろ……」 明日叶が頭を抱える様子をみて、慧は微かに微笑んでいた。明日叶にとっては全くそれどころではないのだが、慧が笑っているなら、まあいいか、とか思ってしまって、明日叶もつられて笑った。少しだけ。 *** 夜、明日叶は慧の泊まるホテルを尋ねた。慧がいるということは、チームグリフの人たちもいるということで。メンバーは久しぶりに見る明日叶の姿に歓声を上げた。 「いやー、ほんっと、明日叶ちんが帰ってきてよかったあーっ!」 「センパイ、マジすげーっス!」 「あすか、えらい」 はしゃぐ三人の歓迎を受けて、 「Bentornate(お帰り)」 「お帰り、明日叶」 ディオと亮一が声をかけてくれた。明日叶はなんだか懐かしくなって、胸が熱くなった。同時に、自分はもうここには帰ってこれないかも知れない、という事実が気持ちを翳らせる。 「どうした、明日叶」 「いや……俺、ここに戻ってくることが、できないかもしれない、から……」 「ああ、そういやそんなこと言ってたな」 ディオは少し笑った。ディオの笑顔は、明日叶を安心させる。 「なんなら、お前のために交渉に行ってやってもいいぜ」 「ディオが得意なのは交渉じゃなくて詐欺だろ」 「どっちも話術だ。同じことだろ」 亮一も「明日叶が戻ってくれると助かるから、もし交渉に行くなら俺も一緒に行くよ」と申し出た。明日叶はまた胸が熱くなって、俺はこんなに必要とされていたんだと思うことができた。 「亮一クンは慣れてますからねえ、交渉に行くの」 眞鳥が会話に入ってくる。交渉、ではなく、交渉に行く、という行為に慣れているというあたりが容赦ない。亮一も頭を掻いて「参るよ、ほんと」と笑った。でも、相変わらずパソコンを操作したままの桐生に「チームのことしか考えていないんだ、二階堂は」と言われて、満更でもなさそうだった。褒めていないのだとは思うが、桐生はため息をついたきり何も言わなかった。 「それより明日叶、候補生に戻るならバングルとミッション服を新調しなければいけませんよ」 「あ、ミッション用の服はまだ持っているので大丈夫です」 眞鳥さんは少し驚いたように「なんか、戻る気まんまんだったみたいですねぇ」と呟いた。確かに、勿体ないから捨てなかったのだがマニュスピカに入るにあたって新しいミッション服が渡されたので取っておく必要もなかったのだが取っておいたのは、チームグリフが忘れられなかったからかもしれない。 「でも、マニュスピカが候補生に戻ることなんて、可能なんでしょうか」 「少なくとも、過去に前例はないな」 桐生がモニターを見ながら言う。 「やっぱり、そうですよね……」 「かなり特殊な例だからな。しかし、可能性があるかないかと言えば、ある」 「あるんですか?」 思わず飛びつくように桐生に質問する。桐生は頷いた。 「上手くいけば、な」 ――結果として、うまくいった。 明日叶は無事候補生に戻ることができた。階級的には降格したのに無事、というのはどうかと思うが、とりあえず明日叶の望むとおりになったのだ。 マニュスピカからの脱退と、候補生からのやり直し。それが今回、明日叶に課せられた"罰"だった。 正式にそれが決まると、明日叶はまず慧の部屋を訪ねた。 「俺、まだ信じられないんだ。もう一度、チームグリフと一緒にミッションができる、って」 「これから嫌でも信じなきゃならなくなる」 「そうだな」 明日叶が笑うと、慧も微笑を浮かべた。昔と同じ、優しい、笑顔。明日叶のよく知る、そして明日叶の大好きな笑顔。 慧が、そっと、明日叶の髪を梳く。明日叶は期待するように慧を見つめた。そして慧は、明日叶の期待に応えないはずがない。自分が一番望んでいたからだ。 「明日叶」 そっと、口付ける。 「ん、……」 舌を絡ませる。慧の舌が、歯列を割って明日叶の口腔の奥まで入ってくる。何度も何度も角度を変えてキスを深くしていくと、明日叶は頬がどんどん熱くなってくのを感じた。 やっと口を離すと、慧は静かに明日叶を押し倒した。その余裕のない表情に、明日叶は思わずくすりと笑う。 慧はそれを見て何となくバツが悪くなったのか、明日叶に「いいか」と聞いた。 「いいよ、慧」 腕を広げて見せると、慧もちょっとだけ笑った。 「愛してる、明日叶」 「俺も。俺も、好きだよ、慧」 まるで子供の戯れのように、明日叶と慧は笑いながら、手を伸ばしてお互いを抱きしめた。 |