総じて、愛。 何が本当は正しかったのか、と言われると、俺は首を横に振って「わかんね」と答えるしかない。 「明。夕食できた」 響がドアを開けて言う。いつの間に、そんなに時間が経ったのだろう。 俺は「あー、うん、サンキュ。すぐ行く」とだけ答えて、響が下へ戻った後も、ぼんやりとベッドに座ったままでいた。数時間前の出来事を思い出し、最初……仮契約した時は、後悔と不快さと苛立ちだけが残ったその行為も、今ではすっかり恥ずかしさと、ほんのりとした嬉しさが勝るようになったな、と思う。 ノートは結局、まだ一ページも使っていない。しかし、一生響の傍にいていいと思ったからこそ俺はここにいて、響の愛撫を受け続ける。 でも、のーとんのことは今でも度々思い出す。「また会える」かもしれないと、心のどこかで思ってしまっている。一生傍にいると言ったのに。揺れている自分が、許せない。あの時の選択は、あれで正しかった。堂々とそう言えたなら、もっと上手に自分の気持ちを切り替えられたかも知れないのに。 「……」 どうしようもない。自分の気持ちを、実は自分が一番理解できていないものだ。俺もまたそうで、理解しきれていない心を、操ることなどできない。――俺は座ったまま、上半身だけをベッドに放り出す。すっかり見慣れてしまった天井の、白い壁紙を見ていたら、しばらく帰っていない自分の部屋の天井を思い出した。 と、その時。ドアが再び開いた。その瞬間、しまった、そういえば夕食……と思い出す。 明は勢いよく上半身を起こし、早足でこちらに歩いてきた響に謝罪しようと顔を上げる。 怒っているかと思ったが、予想に反して響の表情は、焦っているようだった。 「明」 「ご、ごめん響。俺ちょっと考え事してたら何か、忘れちゃって……」 もう一回ごめん、と謝るつもりが、続かなくなってしまった。 響が、俺の体をぎゅっと、抱きしめたからだ。 「ひ……びき?」 俺は戸惑いながらも響の背中に手を回した。すると、沈黙の後、響が鋭い声で、「何」と言った。 「……え?」 「俺が作った夕食を忘れるほどの考え事って、何」 「あの、えっと……」 声音は、とても落ち着いているように聞こえるのに。響は感情を押し殺して喋っているようにも見える。明はにわかに混乱した。どうして、なんで、そんな顔するんだ。 「……のーとんのこと?」 俺はぎくりとして押し黙った。もちろん、響はその沈黙を肯定と取る。さっきよりも強い力で俺を抱きしめると、「駄目だよ」と言った。釘を刺すような口調で。 「駄目だよ、明。俺のノートが全部埋まるまで、明は俺の契約者だから」 ――その声は、俺には震えているように聞こえた。言っていることも、やっていることも自分勝手なのに、その言葉は切実だった。俺がもし、響のもとを離れてどこかへ言ってしまったら。響のことを理解してくれるような契約者は、現れるのだろうか。その可能性は、恐らく天文学的な数字だろう。そういう奴、ばかりなんだ。響を頼らないガリ勉にしても、逆に響に頼りきっている馬鹿にしても。 「……俺、もう決めたからさ」 大丈夫、というように俺は、背中に回した腕に力を込めた。 「前も言っただろ。一生、お前の傍にいるって。同情とかじゃなくてさ、俺、響のこと理解してやりてえって思うんだ。誰も響自身のことを考える人がいないなら、俺がわかろうとする」 響は、黙って俺の声に耳を傾けているようだった。 「俺、のーとんのこともそれなりに好きだったよ。だから、どっちかを取るかわりにどっちかを捨てた……って、思いたく、ないんだ。ただ、なりゆきでこうなった。実際、のーとんを助けるにはこうするしかなかったんだから、なりゆきだろ。だから、俺はそれで受け取った方を、精一杯愛したいと思う」 言い終わってから、今更"なりゆき"という言葉を響は不快に思わないだろうか、と不安になった。しかし、ボキャブラリーが貧困な俺には、今自分が理解している『自分の気持ち』とやらを表現するには、これが限界だった。 ――黙ったままでいる響を見て俺は「まずった」と反射的に思った。慌てて言葉を紡ぐ。 「なりゆきっつっても、厳密にはなりゆきで一緒になった後、お前の話聞いたり普段の響見たりしてわかってやりたい、って思ったからで、仕方がないから、っていうわけじゃなくて……その、響のことがすっ……すすす、好き、だから、で……」 好き、と口にするのは、体を好き勝手いじられるよりも恥ずかしかった。 まあ、要するに、と、今度は落ち着いて言ってみる。 「俺はここを離れるつもりはねえから安心しろってことだよ!」 いまだ響は沈黙を守っていて、俺は何を喋っているんだよ……と、自己嫌悪に陥った。 と、急にぐいっと肩を掴んで体を引き離され、次いで――唇を重ねてきた。 俺は驚いて声も出せずにキスを受けていたがやがて、それが響なりの愛情表現なのだと気付き、そっと舌を絡ませる。響には珍しい、穏やかなキスだった。 響はやがて、唇を離すと、先ほどの俺みたいに、上半身だけベッドに投げ出した。目を閉じて、息をついているところを見ると、安堵しているらしい。すると、俺も安心しているらしいことに気付いた。 「それにしてもさあ、素直じゃねえよな。行かないでって一言、言えばいいのに」 俺が思わずそんな言葉を漏らすと、響はふんと鼻を鳴らした。 「不器用なのは、お互い様」 「うるせえ」 それにしても不器用、っていう意識はあったんだな、と俺が言うと、「うるさい」と返ってきた。 「……メシ、冷めちゃったよな。悪い」 「別に。温め直せば、特にどうってことないし」 それじゃ、食うかな。俺はそう言って立ち上がり、階段を駆け下りる。響もそれに続いた。 食卓にはきちんと二人分。どちらも手付かずのまま食事が置かれていた。 |