あなた(一緒に)






 何不自由なく、満ち足りた生活。ずっと明日叶はそれを望んでいて、遂に叶ったはずだ。それなのに明日叶はため息をついている。気づけばもう、憂いが形となって、口から飛び出しているのだ。
 亮一の隣で、ため息なんてつきたくないのに。
「明日叶、どうしたんだ? 疲れているのかい」
 思ったとおり、亮一は素早く顔を上げて明日叶を心配した。明日叶の胸に、何か、とっかかりのような、不思議で、不快なものが生まれる。亮一の邪魔になりたくない。集中を途切れさせるだけのお荷物になりたくない。でも亮一はそう言うと、お荷物なんかじゃない、と、きっと言うだろう。それがわかるから明日叶は、何も言わないのだ。
 何も言えないのだ。
「なんでもないです。俺、作業効率が悪くて、ちっとも仕事、進まないから……」
 嘘をついて誤魔化すと、亮一は疲れた顔をひとつも見せずに、疲れていないなんてことはない、絶対に疲れが溜まっているはずなのに、明日叶を安心させるように、微笑んで見せる。
「大丈夫、ゆっくりやればいいよ。明日叶は仕事が丁寧だからね」
 それに俺は、と亮一は続ける。
「俺は、いくらでも待つから」
 亮一は一息ついて、また仕事を再開した。
 人間が再び集中するにはどれだけの労力が必要なんだろう。どうしようもなくそんなことばかりを考える。意味のないことだ、でも明日叶のため息の原因でもある。亮一は気づいていないだろう。気づかないよう、明日叶はずっと隠してきたのだ。

 明日叶の異変……というか、微妙な変化に、亮一はようやく気づき始めていた。それは明日叶の望むところとするものではなかったけれど、このまま、うまく亮一を自分から遠ざけたいと思った。
 ミッションや、その他の仕事以外で会う機会を減らした。もちろん、寝る機会も。それどころか、触れ合う時間すら減らした。
 リデュース、リユース、リサイクル……今はやりの“3R”を思い出す。減らす、はリデュース。なんだよ。どれだけ減らしたって、ちっともエコじゃないじゃないか。明日叶はいまだに漠然とした不安とため息をつきたい気持ちを常に抱えながら、亮一の姿を目だけで追う。
 亮一は気づいている。明日叶が亮一を避けていることに。でもまだ、何も言ってこない。いや、言えないのかな。

「明日叶ちん、最近元気ないよ? どうしたの?」
 心配してくれるのはありがたいことだけれど、大声で言われると困る。なんでもないよ、としか言えないじゃないか。ラウンジには今、亮一さんだっているのに。こっちを見てはいないみたいだ。桐生と何か難しい話をしている。
「確かに、最近様子が変だよな」
 ディオは一番最初に気づいていただろう。でも、何となく尋ねる機会を失ってしまっていたみたいで、ヒロの言葉に便乗したらしい。明日叶はまた、同じ言葉を繰り返す。
「なんでも、ないんだ」
「……ふうん」
 ディオの鋭い視線で、納得していないのは一目瞭然だ。一応は明日叶の意図を汲んでくれたらしく、それ以上の追及はしてこなかった。ヒロも、ディオにつられて何かを察したのか、何も言ってこなかった。
 大丈夫、大丈夫。明日叶は自分に言い聞かせる。
 一人で背負い込むなんて、慣れてるじゃないか。
 いや、“慣れていた”?
 ――その時亮一が頭上に掲げた手を打ち合わせて、パンパン、と鳴らした。ミーティングが始まったのだ。
 明日叶は軽く目を瞑って、また開いた。切り替えなきゃいけない。例え亮一に見捨てられても、チームグリフから、この学園からは見捨てられてはいけない。帰る場所は、自分で守らなくては。
「……以上でミーティングを終わる。各自、しっかり休んで明日に備えてくれ。あと、明日叶はこの後仕事を手伝ってもらうから、作戦室に行くように」
「わかりました」
「それじゃ、解散」
 まず無言で慧が、次にヒロと太陽が、何やらぺちゃくちゃと喋りながらラウンジを出て行く。続いてディオも。三年生はラウンジに残るようだ。明日叶もラウンジを出た。後ろから眞鳥の「明日叶も大変ですねえ」という、ちょっと呆れたような声がした。



 作戦室で待っているうちに、寝てしまったらしい。ソファに横たわっていた体を起こし、目を擦る。すると、視界が開けた。目の前には、亮一。
 一気に目が覚めた。
「す、すいません、俺! 俺……寝ちゃって、」
「いいよ」
 亮一はいつものように優しい笑顔を見せた。安心して肩の力を向くと、しかし、亮一の表情がふっと変わった瞬間に、明日叶の背筋も凍る。亮一は笑みを消していた。ミッションに向かう時のような、冷静で、真剣な顔をしていた。明日叶は瞬間的に理解する。亮一の考えていることが、わかる。
「明日叶。単刀直入に聞くけど……最近、何か隠し事してるね」
「してないです」
 もはや反射のようなもので、その言葉はするするっと出てきた。言われたらこう返そうと用意していた言葉だ。
 しかし、亮一は軽く首を横に振った。
「正直に答えてくれ。俺がわからないと思っているのかい?」
 そんなはずはない。避けているということは絶対に気づかれたと確信していた。
「明日叶。俺の目を見て」
 見れない。
 明日叶は亮一に嘘をついていた。なんでもない、なんて嘘だ。本当は、ある。亮一に言いたい言葉が。あるけど、言えないから、誤魔化して、嘘をついて……大好きなのに。大好きだから? 大好きな人の目を、見れないなんて。
「明日叶、」
 亮一がそっと、明日叶の頬に触れる。
 ああ、
 駄目だ。
「亮一さんっ……」
 震えそうな声を押しとどめて、亮一の名前を呼ぶ。
 亮一はもう、笑っている。大丈夫だよって言うように、微笑んでいる。そこなんだけど、問題は。
「亮一さん。俺は、亮一さんのレベルまで、全然達してないんです」
「焦る必要はないんだよ、明日叶」
「違うんです、俺じゃないんです」
 亮一は少しだけ首を傾げた。
「亮一さんが、」
 ずっと、考えていたことだ。それなのに、誤魔化しのための嘘よりもずっとつっかかって出てこない。
「……あなたの不安分子には、なりたくないんです」
「どういうことだい?」
「俺を置いていって欲しいんです」
 ああ、もどかしい。
 どうしてこう、上手く言えないんだろう。
「亮一さん、言いましたよね。ずっと待っててくれるって。でも、それだと亮一さんはいつまで経っても前に進めないんです。……だから、俺は、そうなるくらいなら……俺を置いていってください。ずっと先まで、俺の手の届かないところまで、いってください」
 亮一は無言でじっと明日叶の目を見つめている。明日叶も負けじと見つめ返す。ここで目を逸らしたら駄目なんだ。亮一さんはの俺そんな我が儘を敏感に感じ取ってしまう。明日叶は必死で亮一に訴えかけた。
 大丈夫。この目には、“力”があるから。
「俺のために、亮一さんの何かを投げ出すなんてこと、しないでください。じゃないと俺は、亮一さんが、いつか、俺のために、」
 息を呑む。
 声がどうしても震える。
「……命まで、投げ出すんじゃないか、って」
 いつかのミッションを思い出しながら、明日叶は体まで震えそうなのをこらえ、しかし焦りや不安はこらえきれなかった。明日叶たちのやっていることは、遊びではない。命を懸けている。前線で活躍していないとはいえ、命は等しく危険に晒されている。
 本当に窮地に陥ったら、亮一はきっと、明日叶をかばうだろう。わかる。痛いほどに。だからこんなにも、リアルで、怖い。自分の命が脅かされるよりも、怖い。
 亮一は、じっと明日叶の目を見つめていた。何も言わずに。
 しかし、やがてふう、と息をつくと明日叶の頬に手を触れて、軽く引き寄せる。
 頬に口付け。触れるだけの。
「明日叶、俺はね、」
 優しい顔をしている。明日叶の不安を、溶かして消してしまうような。
「明日叶の手の届かないようなところまで、一人で行く気はないよ」
「でも、それじゃあ亮一さんは、」
「なんでだか、わかるかい」
 明日叶は沈黙で否定した。
「明日叶と一緒じゃないと、俺はそんな遠くまで行けないからだよ」
「……どういう、ことですか」
「俺一人じゃ、進んで行けないんだよ。明日叶が一緒じゃないと駄目なんだ。俺は一人だと、一生候補生どまりのような気がするんだ」
 卒業はするわけだから、候補生どまり、ということはないだろう。マニュスピカになれないという意味だ。明日叶は数度、目をしばたかせる。
「多少のリスクは覚悟の上だし、明日叶のためならむしろのぞむところ、だよ。俺は、二人がいいんだ。二人じゃなきゃ、駄目なんだ。……これでも、駄目かい?」
 亮一は小さく笑った。
 明日叶は少しそんな亮一を見つめて、やがて、同じように笑った。
 嬉しさで、顔が綻ぶのを止められない。
「俺、ついていきます。亮一さんに。ずっと、ずっと一緒にいます」
 そう言って、夢中で亮一に手を伸ばした。


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