究極のナルズム






 いつもそうだ。
 今日に限らずいつもそうだったから、克哉はもうほとんど諦めていた。
 もっとも、“自分”に対して諦める、というのもおかしな話だが……。
「だから、<俺>……」
「なんだ」
 少し力を入れて目の前で克哉を押し倒している、自分を呼んでみても、彼は相変わらず高圧的な態度を崩さなかった。克哉の眼差し一つで謙虚になるような素直な奴ではないということは重々承知していたが。それに、いくら同じ“克哉”であろうとも、容赦がない、ということも。
 確かに二人とも同じ佐伯克哉で、しかし全く違う存在。
 克哉は眼鏡をかけたもう一人の自分を、理解はできても未だ受け入れられずにいた。
「なんでお前はいっつもそうなんだよ?」
「抽象的すぎてわからないな。何がだ」
 わかっているくせに。
「だから、なんでお前は俺なのに今目の前にいて、こうやって何の説明もなしに現れて押し倒して、問答無用で事に及ぼうとするんだよ!?」
「今更だろう」
 今更、そう、今更だ。しかしそうやっているも簡単に諦めて自分の自由が利かなくなるのも嫌だ。
 大体この眼鏡をかけた自分は、最初に克哉の前に実態を現した時も、なんだか結局満足な説明がなされないまま流されてしまった。それから何度も、この、奇跡とも言うべき場面ではぐらかされてなし崩しにセックス(……と、いう程愛のあるものだとは思えないが)に持ち込まれてしまう。
 だから、克哉は決めていたのだ。
 次に、もし<俺>が来たら、必ず問いただしてやろうと。
 ……そんな克哉の心情を察したのか(というか、望まずとも知れてしまうのだ、何てったって同じ人物だ)、彼はクイ、とずれ落ちた眼鏡を左手の中指で押し上げた。そして鼻で笑う。右手は依然として克哉の左手を痛いほど押さえつけていた。克哉は呻きながら、もう一人の自分を見る。
「お前は、……どうして、ここにいるんだ? ここに来るんだ? 俺をこんな風に……するんだ」
「愚問だな」
 <俺>にとってはそうでも、オレにとってはそうじゃない。克哉はそう叫ぼうとして、口をつぐんだ。<俺>がまだ言葉を続けようとしたからだ。
「俺が、楽しいからだ」
「……はあ?」
 あまりに身勝手なその言葉に、克哉はしばし絶句した。口をぱくぱくさせて後、やっとのことで出てきた、否、搾り出したのは、
「たの……しい……?」
「ああ。俺が楽しければお前の気持ちも言い分も、一切関係ない」
「そんな身勝手な、」
 暴君、俺様。悪魔、鬼畜、その他もろもろ罵倒の言葉が思い浮かぶが、口にしてもそれこそ<俺>を楽しませるだけだ。そう思ったので、悪口は思うだけに留めておく。もちろん克哉の考えなど目の前の男には筒抜けなので、意味のないことではあったが。実に悲しいことに、それを思い出した時には既に時は遅いのだ。いつも。
「お前、いつもオレのこと散々馬鹿にするくせに、そんなオレを、その、あんな風にして……ほ、本当に楽しいのかよっ?」
 羞恥もあって、思わず声が裏返ってしまう。また馬鹿にされるかと思って、静かに<俺>の顔を覗きこむと――――眼鏡をかけた自分は、沈黙していた。
「……お、<俺>……?」
「……」
 もう彼の表情に揶揄するような表情は浮かんでいなかった。
 突然黙りこくってしまった<俺>を訝しがって克哉がおずおずと問うと、
 <俺>がにやりと笑った。
「お前は、本当に、馬鹿だな」
 一言ずつ区切って丁寧に“馬鹿”だと罵ると、眼鏡をかけて、不敵な笑みを浮かべている克哉は、思わせぶりに「お前の考えは、全て筒抜けなんだ」と言った。それは先程克哉自身が思ったことであったし、同じ人物なんだからそんなことは百も承知だ。今更何を言っているのだろう……。克哉が頭にハテナマークを浮かべていると、克哉はため息をついた。
「お前は無意識のうちにあんなことを考えているのか。呆れた奴だな」
 そこで克哉は、目の前の自分が何を言わんとしているのか、さっきの沈黙も“馬鹿”の意味も、なんとなく察することができた。しかし、肝心の、自分が何を考えたか、がわからない。
「おっ、オレ、何か変なこと考えた……?」
「ああ、考えたな。かなり変で……」
 その先を言わなかったのは、
 キスが、
 甘いほどの、キスが、
 唇を塞いだからだ。
 どちらが仕掛けたのかわからない。だって二人は、一人なのだ。
 唇を離すタイミングまで、二人は一人、だから。
「……まあ、お前がその気なら、俺も付き合ってやらないこともない。……俺は自分が、大好きだからな」
 それが答えだ、と。相変わらず意地の悪い笑みを浮かべた<俺>は、少し、腕を押さえつける腕を緩めた。もう克哉は逃げ出さないと、知っているからだ。
「オレも自分が好きだよ」
 克哉は小さく笑った。少し照れたように、くすぐったそうにして。
 何という究極の自己完結愛。自分を愛してる。そういうのを世間一般ではナルシストというのだろう。かなり違う気もするし、そう遠くもない気もする。なんとでもいえ、と半ば克哉はやけになった。ここには今、一人だけしかいないのだから。一人で二人だけの、秘め事。
 再び唇を重ねながら克哉は自分が無意識のうちに考えたことを、そっと、思い出した。


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