Q.E.D






 風邪を引いた。
 蓉司にとってはもう慣れたものなので、マスクをすれば大丈夫だろうと立ち上がったのだが、その際少しフラついてしまったのを哲雄は見逃さなかった。無言で蓉司の腕をぐい、と引っ張り、問答無用で額に手を当てる。そして一言、
「熱いな」
「……ただの、微熱だ」
 軽く哲雄の手を振り払ってキッチンへ向かおうとしたが、哲雄は腕を放さなかった。微熱というのは本当だ。測らなくとも、大体は体の感覚でわかる。だるさとか、重さとか、そういうのに微妙な違いがあるのだ。
「休んでた方が、いいんじゃねえのか」
「それは、そうだけど。でもご飯、」
「俺が作る」
 蓉司は軽く瞠目して「哲雄、そういうのできるのか」と言うと、哲雄は「少しなら」と答えた。二人で住み始めてから家事は今まで蓉司やっていたし、手伝いを頼むにしても、せいぜい洗濯物を畳んでもらったり、皿洗いをしてもらったりと、その程度だ。裁縫が得意なのは知っていたが、料理ができるなどということは聞いたことがない。
(いや、でも実は、案外器用かも)
 見る機会がなかっただけかもしれない。
 それに、哲雄が作った料理というものも、食べてみたいような気がする。蓉司は布団に入りなおして「それじゃあ」と言った。「頼むよ」
 哲雄は軽く頷くと、ちらりと時計を見てから、ベッドの脇に座った。じっと見られて、蓉司は思わずたじろぐ。
「あの……」
「どうした。欲しいものがあるのか」
「いや、そうじゃ、なくて……」
(もしかして、これは)
(看病してくれてるのか?)
(病院で眠る人をずっと付きっきりでみていてやる、っていうあれ……)
 しかし蓉司はそんな銃病人であるわけではない。病気といえばそうかもしれないが、持病とは小さい頃からのお付き合いをしている。こんなことで哲雄の手を煩わせたくない。でも、純粋に嬉しいという気持ちもある。その二つがせめぎあって、結局「ずっとついてたら、朝飯作れないだろ」と言ってようやく傍から離れてもらった。
 ベッドからは、哲雄の背中しか見えない。でもそれで十分だと思う。
 哲雄の傍にいられるだけで。
(それだけで、俺は……)
 そっと目を伏せると、そのまま夢の中へと引きずり込まれた。
 次に目が覚めたときには、哲雄は再びベッドの脇に座っていた。
 なんだか、全身が熱い。少し寝たからか、どうも熱が上がったような気がする。大体は感覚でわかるが、後でちゃんと測ろうと思い直す。
「哲雄、ご飯は」
「ああ、食べた」
「そうか」
「……熱、上がったんじゃねえのか」
 哲雄はその大きな手を、蓉司の額にあてがう。少しひんやりとした哲雄の手は、なんとも心地がいい。
「ちょっとだけだよ」
 言いながら、蓉司はまた少しだけ熱が上がるのを感じた。
(ヤバい……な……)
 熱のせいで思考が覚束ないということも相まって、蓉司は反射的に哲雄に手を伸ばしてしまいそうになった。慌ててその衝動を抑える。
(キス……したいな)
(でも、そしたら風邪、感染しちゃうよな)
(やめとこ……)
 ゆっくり目を閉じて、再び開ける。哲雄はそこにじっとしている。ただ、座っている。自分の隣に。
 蓉司は、なるべく哲雄が安心するように、笑みを浮かべた。
「仕事、行ってこいよ」
 哲雄は蓉司を見つめたまま動かない。蓉司の真意を測っているのかもしれない。
「俺は、大丈夫だ。ちゃんと、大人しく寝てるから」
 他には何と言えばいいのだろう。何と言えば、哲雄を安心させてやれる? 哲雄が自分のことを気にせずに、仕事ができるような。
(いや、でも、)
 結局同じだ。
 きっと哲雄はいつもより早く帰ってくるし、その間蓉司はずっと哲雄のことを考えている。
「でも、なるべく、早く帰って来いよ」
 あえてそう言うと、やっと哲雄が唇の端をちょっとだけ上げて微笑んだ。「わかった」と言って、立ち上がる。
「行ってくる。作った飯は、二食分、冷蔵庫に入ってるから、温めてから食ってくれ。……無理は、するなよ」
「ああ」
 哲雄はさっと支度を済ませると(というか、もうほとんど準備を終えていたのだ)、 ガチャリと音を立てて部屋から出て行った。
(静かだ……)
(哲雄がいても、静かだけど)
(いや、うるさいとか、静かとかじゃなくて、哲雄は、)
(あったかい)
 しかし、別段静かなことが嫌いなわけではない。むしろ喧騒は苦手な方だ。丁度いい、と思い直し、蓉司は目を瞑って押し寄せる怠惰と眠気に身を任せた。



 哲雄は蓉司の要求通り、いつもよりも一時間程度早めに帰ってきた。朝食と昼食以外は浅い眠りを繰り返していたが、ドアの開く音で覚醒した。ふと時計を見ると七時を少し回ったところだった。
 哲雄はドアを閉めると、鍵もかけずにまっすぐ蓉司の元へ向かった。膝をついて、蓉司の顔を覗き込む。その様子になんだか笑えてきて微笑むと、反して哲雄は眉根を寄せた。
「下がってないな、熱」
「見ただけで、わかるのか」
「わかる。顔が赤い」
 哲雄はそっと蓉司の頬に触れた。
(手、冷たいな)
 蓉司は哲雄のその大きな指に、自分のそれを重ねる。ひんやりとした感触が自分の手のひらにも伝わってくる。
「きもちいいな」
 呟くと、やっと哲雄は笑った。
(手、なら。いいかな)
(……いいか)
 蓉司は哲雄の手を掴むと、そっと唇を寄せた。それから、食むように指を口の中へ入れる。冷たさが口の中に広がった。
 哲雄は、空いている左手で、蓉司の前髪をかき上げる。汗の滲む額にそっと指を這わせていく。
 口の中の哲雄の指が、だんだん温かくなってくる。熱伝導っていうんだっけ、と蓉司は意識が一瞬だけかつての化学の授業へ飛ぶが、指が口から離れて、代わりに唇が押し当てられた時にその思考は遮断された。
(……あっつい)
 熱い舌が同じく熱い蓉司の舌と絡まって、ふわりと浮かんだような心地がして、蓉司は夢中で哲雄の背に手を回した。吐息が交じり合って、どちらのものかもわからなくなって、危うく蓉司は意識を手放すところだった。
 すんでのところで哲雄の唇が離れていく。
「……熱、感染るぞ」
 哲雄はちょっとだけ、笑った。
「大丈夫だ」
「何が」
「熱ならもう、上がってる」
 その言葉の意味を理解するのに少し時間がかかったが、哲雄が何を言わんとしているのかわかると、蓉司は途端に居たたまれなくなって、視線を逸らすしかなかった。
(馬鹿、って言いたいけど、)
(目を、合わせられない……)
 何も言えずに困っている蓉司に、もう一度、哲雄はキスをした。
 さきほどとは比べものにならない熱さで。


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