微睡みと忘却 殴られた。 あまりにいきなりのことで、哲雄は反撃をすることもできずに、ただ目の前の男――三田睦を見つめた。三田は息を荒くして、目を充血させながら哲雄を睨みつけている。 三田が叫んだ。 「ふざけんなよ!!」 三田のその台詞が、哲雄には意味がわからない。ふざけるなと言われても、こちらにはふざけている意識などこれっぽっちもないのだから仕方がない。しかし、この自分の思考こそが三田をいらつかせている原因なのかとも考えた。考えただけで、理解が追いつかない。 病み上がりで、学校には退院してから登校するのは初めてだ。心配されこそすれ(自分を心配するような奴がこのクラスにいればの話ではあるが)、殴られる覚えなどない。それも、殴られた理由がいまいち理解できていない。 ただ、突然知らない男の名前が三田の口から飛び出て、 「蓉司は」 黙っていると、 「蓉司は、蓉司は無事なのかよ!?」 知らない。 哲雄はその男のことを、知らなかった。だから素直に「誰だ、」と答えた。その瞬間に、殴ってきたのだ。 拳を強く握りしめて歯を食いしばる三田の顔は蒼白で、小刻みに震えていた。その様子に、そういえばこいつも病み上がりなのか、とぼんやり思い出す。でも、入院していたのはいつだっただろう。結構前だったはずだ。確か、化学室で……。 「……忘れたのかよ」 三田が、怒りを押し殺したような声で呟くように言った。呟くように、とは言っても、その問いは確実に哲雄に向けられていて、いっそ悲しみすら含まれていた。 記憶の欠如。 どうしても思い出せない一人の存在。 そう言えば、母親も何度かその男のことに触れていた気がする。母親は彼のことを「あの子」と言った。「あの、夕食をご馳走したあの子は、お見舞いには来ていないの?」。誰のことなのかわからなかったので、さあ、と曖昧に答えておいたが、もしかしたら、いやきっと、この男のことだ。 「忘れたのかよ、城沼!」 三田が哲雄の胸ぐらを掴んで叫ぶ。クラスメートは遠巻きに二人を見つめているだけで、注目の的となっているのに、不思議と教室は、二人しかいないのかと錯覚するほどに静かだった。 「……そうかも、しれない」 言うと、三田はまた目を見開いた。何を答えても、きっと自分は三田を満足させるような言葉を口にはできないと、本能的に感じていた。 「事故の記憶がない。それ以前の記憶も、所々ない。それは多分、三田の言う――」 "蓉司"という男のことだ。 三田は震えていた。そうして、哲雄を見つめたまま、泣き出しそうに顔を歪めてから、ふ、と、力を抜く。哲雄は解放されて、知らず入っていた体の力を抜く。三田は、あれほどまで泣き出しそうに目を赤らめていたのに、今は何かを思い出すように虚空を見つめていた。 「約束、」 「え?」 「したんだよ」 「……」 「今度は、三人で遊ぼうぜ、って」 三人。 「俺と、蓉司と、それと今度は城沼も誘って、一緒に……」 す、と過去を慈しむように目を細めてから、三田はくるりと踵を返して哲雄に背を向ける。そして、 「生きてんのかな」 唐突に呟く。 それは、一人のごく普通のクラスメートにかける言葉としては酷く不似合いな心持ちがしたが、おそらく、彼にはその言葉が合っている。なぜか急に痛みだした胸にそっと手を当てて、哲雄はそう思いつつ三田の背中を見つめた。 家に帰ってから、机の周りを軽く見回す。 クラス写真のようなものは全て母親に預けているため、"蓉司"という男を知る手がかりとなるようなものは見つけられなかった。それでも何か接点はあったのだろうし、何かあるだろうと思って探してみたのだが、何も見つからない。本当に何一つない。これまで自分がいかに他人というものに無頓着だったのかが思い知らされた。それは恐らく、これからも。 諦めてベッドに横になる。 その瞬間、ふわりと、何か、芳香が漂ったような気がして、驚いて沈めた体を持ち上げる。 「……」 知ってる。 この香りを。知ってる。 何故? 「……よう、じ……?」 ふ、と言葉がこぼれ落ちて、自分ではっとする。 なぜかこの香りが、"蓉司"のものであるような気がした。 そして、胸を襲う、痛み。教室で感じたものと同じだ。この痛みを感じるたびに、まるで何かに責められている気がした。三田睦にではない。しいて言うなら、自分自身だ。自分でも忘れてしまった"城沼哲雄"が、自分を責め立てるのだ。彼を忘れてしまった自分を。 「哲雄」 ふと名前を呼ばれたような気がして、反応しようと思ったが、意志に反して目を閉じてしまう。 「哲雄」 頭の中から響いている。――否、心の、記憶の中から響いている。心地よい声だった。自分も彼の名を呼びたい。いつか、そうしたように。 「哲雄」 満たされた気持ちが眠気を生み、微睡みの中で彼の名を呼ぶ。 蓉司。 蓉司が、少しだけ、笑った。 気がして、 |