Good Night






 久しぶりに、イグラの夢を見た。
 その凄惨さにやられたわけではない。出会い、別れた人々の顔や、殺した人……自分の"血"によって死に追いやられた人たちの姿に吐き気がしたのだ。血、血、……血血血。血の赤。狂気が蔓延する街、トシマ。ラインに溺れる男。ヴィスキオ、処刑人、城、血まみれのクラブ。アキラは血の海の真ん中に立っていた。目の前には一人の男がいる。それは、アキラも、よく知っている、
 男。
 吐き気がする。異の底から何かがこみ上げてくる。胃液を吐いた。饐えたような匂いは自分のものか、それとも、床に転がる死体の腐臭か。アキラは悟る。これは記憶なのだ。アキラの。トシマで見聞きした、全ての――。

「アキラ」

 名を呼ばれてぱっと目を開くと、ユキヒトがアキラの顔を覗き込むようにしていた。アキラはその顔を見て、思わず手を伸ばした。頬に指が軽く触れる。ユキヒトはアキラの思いがけない行動に少し面食らったように瞠目した。アキラは素早く手を離し、ユキヒトから目を逸らす。
「お前、……仕事は?」
「今日は休みだ」
「そうか」
 アキラはほう、と息をつく。
「……うなされてたか?」
「ああ、辛そうな顔してた」
 ユキヒトは体勢を元に戻し、アキラの隣の枕の上に座る。
 ユキヒトは何も聞かなかった。しかし、そうして気になるような素振りを一切見せないところを見ると、話してもいいかなという気になるから不思議だ。
「イグラの夢を……見た」
 ぽつりと零すように言うと、ユキヒトは少し黙ってから「トシマ」とだけ呟いた。
「夢の中で、俺は吐いてた。まだ、胃液の酸が、口に残っている気がする。……そんなはずは、ないんだけどな。夢だから。でもその夢は、全部俺の記憶なんだ」
 死なないから生きているわけではないと、今ならわかる。だからこそ、トシマで感じたことの全てが生きていることの重圧として圧し掛かる。アキラは無意識に口を手で押さえた。そうして目を閉じる。イグラではどんな酷い死体を見ても、こうやって乗り切ることができた。静かに目を開けると、もう吐き気は消え去っていた。安堵したが、再び寝る気にはならない。またあの時の夢を見るぐらいなら、一生眠りになどつかなくていいとすら思った。眠気も今は消えうせている。
「……悪かったな、嫌なこと思い出させて」
 ユキヒトにとってもトシマでの思い出は気持ちのいいものではないだろう。ユキヒトはじっと何かを考えている様子だった。アキラもアキラで、ユキヒトと初めて会った時のことを思い出す。
「アキラ」
 不意にユキヒトがアキラの名前を呼んだ。アキラは反射的に反応して、ユキヒトの方を向くと、目があった。その瞬間、ユキヒトはアキラにそっと近づいて、静かに口付けた。アキラは驚いて瞠目するが、体のいたるところから力が抜けていくのを感じ、ある種の心地よさすら感じて、そのまま目を閉じた。すると、ユキヒトが更にキスを深くしてきたので、アキラは思わずユキヒトの背に手を回した。同時にアキラの中で、心地よさとは確かに違う何かが生まれるのを自覚する。体の芯から熱くなるような感覚に襲われる。
 ようやく唇が離れると、アキラは自分の息が乱されていることに気付いた。ユキヒトはその様子を見て軽く笑みながら、
「忘れただろ」
「え?」
「嫌なこと。全部」
「……おかげ様で」
 今更羞恥がこみ上げてきて、アキラは目を逸らしてぶっきらぼうに答えた。自分を思ってのこととは言え、ユキヒトに乗せられた気がして何だか腑に落ちない。
 しかし、先ほどまであった胸の気持ち悪さは大分消えていた。まだ拭えないそれは、きっと生きている限りずっとそこにあり続けるのだろう。この血が、自分の血を巡っている限り。しかし、いいのだ、それで、と思う。トシマであったことの全てをこの血が覚えている。悪夢は血の中で眠り続けている。それでいいのだ。
「眠れそうか?」
「ああ」
 アキラは目を閉じた。すう、と眠気に引き込まれる。ずっと待っていたかのように。
「おやすみ」
 ユキヒトは小さく、囁くように言って、アキラの頭に軽く手を乗せた。その手が離れた時には、アキラの意識は眠りの淵に落ちていて、ユキヒトはそれを見てもう一度「おやすみ」と呟き、目を瞑った。


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