苗字と前とウニ頭と






「なあなあ三橋」
「……」
 伊藤の呼びかけに、返事は返さなかった。三橋は片手にポテチを持って、器用に漫画を読み進めている。その後ろにくっつくようにして、伊藤はもう一度「なあなあ」と言った。
「なあなあ三橋」
「……」
「なあなあ」
「…………」
「なあ」
「だーもうウッセーな!」
 とりあえず一発殴ってやったが、それでも伊藤の表情は変わらない。三橋は嫌な予感を感じて身を硬くした。
「なあ三橋」
「だから何だよ!」
 すると伊藤は、少し恥ずかしそうに目をそらして、
「貴志って、呼んでいいか?」
 そんなことを言い出した。
 まるで恥らう乙女のような伊藤の様子に軽く引いたので、
「だ……ダメ」
 とりあえず断っておく。
「ええっ何でだよ?」
「キモイからじゃ」
 くるりと漫画の方に向きを変えて再び読み出したが、素早く伊藤に没収される。
「なにすんだ、返せボケ!」
「もともと俺が買ってやった本じゃねーか!」
 伊藤はさっと漫画を自分の後ろに隠すと、三橋に向き合ってにこりと笑った。
「じゃ、俺のこと真司って呼んでくれたら返してやるぜ」
「真司」
 何の躊躇もなく口にした三橋を前に、伊藤はしばし呆気に取られたように目をしばたいた。
 そして、次第にその顔を赤くする。
「……呼んだダロ、ソレ返しやがれ」
「…………お、オウヨ」
 ぽすんと三橋に渡される漫画本。
「……だ、だから、なんでテメーが赤くなんだよ!」
「オメーだってなってんじゃんか」
「うつったのだ!」
「……ナア、もう一回言ってくれよ」
「いやじゃ」
 気持ち悪くくっついてくる伊藤に背を向けて漫画を開く。
「なあーいいだろー、貴志」
 再び沈黙。しかし次の瞬間、三橋は伊藤の頭に本日二度目の拳を振り下ろしていた。
「死ねカッパ!」
 死にたいのはこっちのほうだ。
「……赤くなってんぞ、耳」
「ダマレ」
 三橋は漫画に視線を落としたまま、まるで何事も無かったかのように、ページを繰り出した。
 ……ただ最初と違って、その内容はちっとも頭に入ってこなかったけれど。




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