彼のは痛いわね





 痛い。
 本当はもっと下品で貧相なボキャブラリーを駆使してもっとたくさんの罵倒の言葉を並べていた気がするが、とにかく三橋はおおよそそんなことを叫んで伊藤を力の限りぶん殴った。
 不意をつかれた伊藤は後ろへ吹っ飛……べずに、すぐ後ろの壁に激突し、思わず頭を押さえながら顔を歪める。
「ってえなこの野郎、痛いのはこっちだっつーんだよ!」
 頭をさすりながら三橋を見ると、三橋は息を切らして涙目になりながらジリジリと後退していた。しかし一人用ベッドというのは十分に下がれるほどの幅はない。それでも三橋は伊藤を近づけまいと、全力で逃げようとしている。顔が心なしか、青ざめている。
 さすがに伊藤も不安になった。
「な、なんだよ……そんなに痛かったのか?」
 三橋は何も答えない。というか、口をぱくぱくさせたまま、声が出てこない様子だった。
「いや、でもよ、しょっちゅう喧嘩してんだから、ちょっとの痛みくらい……」
「てめえはこの痛みがちょっとだと思ってんのかこのタコ!」
 三橋は大声でそう叫ぶと、腰のあたりまで下がっていたズボンをぐいっと引き上げ、一目散に部屋を出て行った。どたどた、と騒々しい音がして、ばたん、というドアを開けて家を出て行く音がした。
「……っかしーなあ」
 伊藤は頭を掻きながら、お互い合意のはずじゃなかったっけ、と回想する。
 これじゃ俺が悪者じゃねえか、と、僅かな不満を抱きながらも。



「おい三橋」
 朝から散々無視するので(気まずくて顔を合わせづらいのだろうが)、屋上で扉に背を向けて昼飯を食べている三橋の後ろから声をかける。途端に、三橋の動きがピタッと止まる。
「な、なんだよ」
 三橋は背を向けたまま応える。
「お前、これ。昨日俺の家に忘れていっただろ」
 あえてベルト、と言わずにこれ、と言う。案の定、三橋は振り返った。三橋もベルトだとわかっていただろうに。
 三橋が素早くベルトを伊藤の手から奪い取ってまた背を向ける前に、伊藤は屈みこみ、三橋の両肩を掴んでこちらを向かせる。
「で、三橋。俺考えてみたんだが、やっぱりあの一発はフェアじゃねえと思うんだ」
「し、知らねえよ」
「だって、お前がいいっつーから俺だってやる気になったんじゃねえか」
 三橋はむむむ、と、眉根を吊り上げて、しかし何も言えないでいるようだった。やたらに罵倒してこないところを見ると、そこまでは自分の中でも理解できているらしい。もちろん、素直な謝罪の言葉など、伊藤はこれっぽっちも期待していない。
「……でもよ、イトー」
 初めて三橋から伊藤に話しかけた。お、と思って伊藤は耳を傾ける。
 三橋らしくなく、何かに脅えているような声だった。
「ケツの穴だぞ!?」
「……は?」
「お前ケツの穴を排泄以外に使ったことあんのかよ! ねえだろ!? 大体ケツの穴っつーのは本来こういうことに使う場所じゃねえんだ、そもそも吐き出す場所であって受け入れる場所じゃねえんだよ、」
「わかった、わかったからそんな下品な言葉連呼すんな!」
 伊藤は慌てて三橋の口を塞ぐ。この日ほど屋上に人がいないのを(今日は理子もいなかった)ありがたく思った日はない。三橋はまだ不満げな顔をしながらも、口をつぐんだ。誰もいないと言っても、さすがに白昼堂々とこういう言葉を口にすることを自粛したのかも知れない。違うかも知れない。
「お前、でも、することはわかってたんだろ?」
「そりゃあよ、お、男同士だとそーゆー風にしてやるってことは聞いたことあったぜ、もちろん」
「だから承諾したんだろうが」
「そうだけど…………だーっ、もうごちゃごちゃうるせえな男のくせによおっ!」
 三橋はいきなり立ち上がった。
 主導権は常に自分になくてはいけない。それが三橋だ。伊藤は今更そういやお前ってそんな奴だったね、と思い出す。
 伊藤ペースだったのが、三橋が伊藤の胸倉を掴んで無理やり立ち上がらせたところで逆転してしまった。あまり突然のことだったので、伊藤は反撃もできずに、三橋の拳を喰らう覚悟をして目を瞑ったが、
「……、」
 予想に反して、襲ってきたのは固い拳ではなく、柔らかい唇だった。
 優しさなど欠片もない。舌を使うことも知らない。ただぐいぐいと唇を押し付けるだけの、子供のようなキスだった。
「これでいいだろ、この野郎!」
 伊藤はきょとんとして聞き返した。
「今のって……昨日逃げ出した分?」
「おう! 文句あるか!」
 何と言うか。伊藤は忍び笑いを漏らした。三橋にはそれが気に入らなかったらしく、なんだよ、と喧嘩腰で睨んでくる。
「三橋、以外にキスへたくそだよな」
 ピキ、と三橋の額に筋が入るのが見えた。
 ああ、今度こそ来るな、と理解する。でもいいか、三橋からのキスなんて、殴られてもお釣りがくるぐらいだ。伊藤はそう腹をくくる。愛って痛いわね、なんて気障なことを考えてみる。
「チョーシ乗んじゃねえこのウニ頭!」
 今度こそ、固くて痛い拳が飛んできた。






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