母が教える男道 勝手に番外編





<あらすじ>
三橋と今井は図々しくも伊藤(の、母親)の別荘にお邪魔した。
豚を逃がした。
三橋は逃げた。
山の中(恐らく)で迷った。
伊藤は今頃豚を……。






 ただ闇雲に走ったのがいけなかった。
 そうだ、よく考えたら俺は足が速いんだ。三橋は今更ながらそんなことを思う。全速力で結構な時間走れば、そりゃあ現在地もわからなくなるだろう。
 とりあえず息切れを静めようと、ゆっくり歩き出す。目に痛いほどの朱。夕暮れだ。これからどんどん暗くなるだろう。三橋は小さく舌打ちをしたが、もうどうにもならない。地図などあるはずがないし、自分がどの方角からどうやって走ってきたのかも全くわからない。伊藤の家の別荘に戻ろうにも戻れない。そんな状態で、多分ここからもっと遠い家になんか戻れるはずがない。
 一番綺麗な状態の夕焼けはすぐに消える。しばらく右往左往してとにかく歩き回っていると、すぐに暗くなってきた。しかし、周りは林、林、林。どこを見ても木や枯葉ばかり。心なしかお腹もすいてきたし、走ったせいで喉がからからだ。
「くそ、帰れねえ……」
 そういえば、今井のバカはどこにいるのだろう。自分がこんなに迷っているのに、あいつが無事に家に辿り着くなど考えられない。そう考えるとちょっと笑えてきた。今頃自分のように空腹と渇きに苦しんで……。
 ちっとも笑い事ではない。三橋はすぐに気づいた。
 気を取り直して歩く。夜はどんどん深まっていく。今頃になって逃げて来たことを後悔するが、しかしあの豚の金を払えと言われたらたまったものではない。やはり逃げてきて正解だったかも知れない。
「くそー、なんだって俺がこんな目に……」
 むしょうにイライラして落ちていた小枝を蹴るが、高く舞い上がったそれは青々とした葉にあたり、ガサガサ、と音がした。と、同時に、バサッ、と、何かが飛び立った音もした。
 血の気が引いた。
 なんだか林の中というのは奇妙だ。一人であるのに、恐らくここには数多くの生き物が存在しているだろう。そしてその中に、非生命体的なものが紛れ込んでいても、自分にはわからない。例えば……霊的なもの、とか。三橋は恐怖で一瞬、足を止めた。
 しかし、動きを止めた瞬間に周りの音がより際立って聞こえるものである。ガサガサ、という葉が揺れる音は本当に風のせいなのか? 足元で枯葉がカサカサと鳴る音は、本当に土の上に這いつくばって生きている生物のせいなのか? 考え出すと止まらない。
 ホゥ、ホゥ、というふくろうの鳴き声すら恐ろしく感じられて、三橋はとにかく走った。
 怖い、怖い怖い怖い!!
「畜生、伊藤の野郎俺をこんな危険な場所に放り出して何やってんだ!」
 八つ当たりをして自分を保とうとするが、一度意識するともう何の音でも、どんな風景でも恐ろしく感じてしまう。三橋の心臓は早鐘を打っている。今までどんな敵を相手にしてもこんなに大きくうるさく鳴り響くことのなかった心臓が、今物凄い速さで動いている。
 つまり、これは今までになくヤバイくらい危険ってことだ!
 三橋はそう解釈してますます怖くなる。冷静に分析した結果がこれである。悪循環である。そして阿呆である。
 走るのに疲れたので、少しスピードを緩め、段々スピードを緩め、やがてウォーキング程度の速さになった。つまりは早歩きである。
 その時、聞こえた。
 明らかに自分のものではない足音が聞こえた。三橋は反射的にぴたりと止まる。
 ガサ、ガサ、という足音は、確実に自分へと近づいている。三橋はまるで金縛りにでもあったかのように硬直した。心臓の音すらもう聞こえない。いろいろと麻痺しているのかも知れない。
 足音が近づくにつれて、不気味な鳴き声が聞こえた。

 ……つ……し……。
 み……はし……。
 みぃーつぅーはぁーしぃー。

 俺の名前だ!
「く、くそ、とうとうお迎えがきやがったか」
 声は段々近くなっている。
「来い! 俺ぁ幽霊なんざこれっぽっちも信じちゃいねえんだー!」
「みいいいいつううううはあああああしいいいいい!!」
 突然、大きな影がぬっと三橋の前に現れた。
 悲鳴を上げようと口を大きく開いた時、反射的に手が飛び出す。
「みぎゃっ」
 ヒットした。
 大きな影はその場にどさっと倒れた。三橋は動かない体を無理に動かして走る。とにかく影男(拳が感じた、これは男だ)から遠ざかろうと、体を引きずるように引っ張って逃げた。
 影男の正体が今井であることを三橋が知ることはない。
 大分離れたところまで来ると、三橋の口からは乾いた笑いが漏れた。
「なんだ、幽霊って実態があんのか! へ、へへへ、この俺に拳で勝とうなんざ百年早えんだよ! これで幽霊なんて怖くねえぜ、どっからでもかかってきやがれチクショー!」
 息を切らしつつ、夜の涼しい気候にも関わらず大量の汗を流し、且つほとんど涙目である三橋は相手が殴れる存在であると同時に、途端に強気になる。
 すると、また足音らしき音が聞こえ、体を強ばらせる。
「ど、どっからでも来い! この三橋様が相手になってや――」
「わっ!」
「うぎゃああああああああ!!」
 三橋はその場に尻餅をついて、危うく意識を手放しそうになったが、なんとか根性で持ちこたえる。というのも、すぐ傍で笑い声が聞こえたからだ。
「ぷ、くく、お前って驚かしがいがあるよなあ」
 尻餅をついた三橋を見下ろして笑っていたのは伊藤だった。
 思わずホッとしてしまいそうになるが、慌てて顔を引き締める。
「イトー、てめーこの野郎! 悪趣味だぞ!」
「なんだよ、人が折角探しにきてやったっつーのによお」
「うるせえ! てめえみてえなカッパに誰が助けられるかっつーの!」
 伊藤は反抗せずに、ただにやりと笑った。
 嫌な予感がする。
「ほー、そーかそーか。余計なお世話だったみてえだな。じゃあ俺は別荘に帰るぜ」
 三橋は物凄く切羽詰った顔をして、さりげなく話題を逸らした。
「そういやお前母ちゃんに豚殺せって言われてただろ。どーやって逃げ出してきたんだよ」
「逃げ出してねえよ馬鹿野郎」
「じゃ、じゃあお前まさか」
「ちげーよ。肉はやっぱり食べたい気分じゃないから豚もいらないっつったら許してくれたんだよ」
 確かに、あの母親ならあらそう、残念ね、などと言いながら引き下がりそうな気もするが、と、三橋は考える。
「で、どうすんだよ三橋。置いてかれるか、素直に俺に助けられるか」
「ば、馬鹿言ってんじゃねーよイトーよお、俺は幽霊をこの手で一発KOさせたんだからな」
「幽霊を?」
 伊藤が驚いたように声を上げる。それが嬉しくて、少し得意になる。
「おうよ。拳でガツーンとな。幽霊にも実態あったんだな。俺は今まで長いこと誤解してたぜ」
「いや……幽霊に実態はないだろ」
「んなわきゃねーよ、俺殴ったんだからよ」
「それ、人間だろ」
「……え?」
 伊藤はうわー、やっちまったな、などと繰り返して、三橋の耳元で囁いた。
「きっとおめーみてえに迷った奴だったんじゃないかー? せっかく人に会えてホッとしたところを一発殴られてよ。そいつが今度こそ幽霊になって三橋の前に出たりしてなあ?」
 三橋は言葉を失った。
 それだけではない。血の気が引いて、冷や汗が流れ始め、小刻みに体が震え出した。
「で、どうするんだ、三橋」
 伊藤が再度問う。それに応えようと口を開いた三橋が言葉を発する前に、ちょっとした悪戯心で、伊藤は素早く付け足した。
「まあ、お前が一度俺の助けなんかいらねーっつったんだから、いらないんだよな。たかが幽霊が怖くて俺の助けを必要とする三橋じゃないもんな」
 ちょっとお灸をすえてやろうぐらいの気持ちである。
 三橋は口をつぐんだ。そして何も言わずに、ただ震えていた。そこまで怖がっているにも関わらず、そんなことを言われたからには伊藤には決して助けを求めまいと唇をぎゅっと引き結んでいる。
 これにはさすがに伊藤も良心が咎めた。
「……まあでも、そもそもこんな暗い中じゃあ道順わかんねえよな。とにかくついて来いよ、三橋」
 伊藤が、譲歩のつもりでそう言い、手を差し伸べた。
 しかし、三橋はその手を取らなかった。最早意地である。
「そんな意地張るなよ。ここに置いてけぼりにされたら朝まで家なんかにゃ戻れねえぞ」
 三橋は黙っている。
「おいおい、気絶してるんじゃねーだろーな」
 伊藤が三橋の手に触れると、やはり小刻みに震えていた。どうやら、ちゃんと意識はあるらしい。
 それよりも伊藤が驚いたのは、三橋の手の冷たさだった。かなり冷たくなっていた。
「し、仕方ねえな」
 と、口にしたのは三橋だ。
「伊藤がどーしても俺を連れていきたいってんなら、一緒に行ってやってもいいぜ」
「……なんだそりゃ」
「夜だとなんか雰囲気がコエーからな、俺の手を掴むことも許してやる。喜べ! こんな機会滅多にねえぞ!」
 伊藤は先ほどの沈黙の意味を理解した。これを待っていたのだ。
 こいつは……どこまで……。
 伊藤はため息をつきたい気持ちをそっと抑えた。
「お前って本当に、負けず嫌いな」
「うるせ」
 伊藤はここぞとばかりに三橋の手を掴む。高校生にもなって野郎と手を繋ぐことになった三橋は、しかし今ばかりは何も言えずにただ伊藤の手を痛いくらいに握り締めている。
 伊藤の手は温かくて、三橋の手がその熱を奪って温かくなるまで、大した時間はかからなかった。
 もっとも、手を繋いだことによってお互いの体温が微妙に上昇したことも、それを助けたのだろうが、当の本人たちはそれをあまり自覚していなかった。しかし確かに、心地よさを感じてはいた。
 少なくとも、すっかり忘れ去られてしまった今井よりは、幸せだったに違いない。


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