大切なものは僕でした 殴られた。三橋に。 俺は驚いて三橋を見やったが、どうやら三橋自身驚いているようだった。なんで? 俺が混乱していると、理子ちゃんが教えてくれた。「イトーちゃん、手、当たったでしょ」 「え? 何に」 「三ちゃんのポケット」 ああ、わかった。 三橋はいつも、ポケットに小銭を忍ばせている。ポケットに偶然手が当たってちゃりん、と音が鳴ってしまったのだ。 「おま、誰がお前の金なんか取るか! 殴るこたないだろ!」 「うるさい、防衛本能じゃ」 どうやら三橋は、大切なものを守るために反射的に体が動いてしまうらしい。そういう家庭で育ったんだから仕方ないだろ、と、三橋には反省の色なし。そして俺も、そんな三橋をちょっとでも不憫に思ってしまって、反論も何もできないわけだけれど。 「俺はテレカを落としてもわかるぞ」 「三ちゃん……」 理子ちゃんは早くも涙ぐんでいる。可愛そうに、相当貧乏な家で育ったのね、とハンカチで涙を拭う。それが当たり前である三橋は最早それは特技というか、性質であるので、なぜ理子が泣いているのかわからない。こいつは、マジで、不憫な奴なのかも知れない……。金の富んだところで育った俺もうっかり涙を流してしまうところだった。 「なんじゃその哀れみの目は!」 三橋はようやく、なぜ二人が涙ぐんでいるのか理解したらしい。そして、憤慨している。拳をぐりんぐりんと振り回して、まずその拳は俺を狙ったのだが、 「はり?」 俺がひょい、と避けると、三橋は大きく空振った。それだけでも思わず目を瞠るほど珍しいことなのに、あろうことか、三橋はバランスを崩した。 「あ、」 そしてそのまま、崩れるようにして、地面に伏す。 「三橋!」 「三ちゃんっ!」 倒れた三橋は、完全に気を失っていた。 俺はため息をついて、三橋の眠るベッドの脇で、安らかとは言いがたい寝顔をじっと見つめていた。 ここは三橋の家のベッドである。一旦は保健室へ運ばれたが、仮にここで目を覚ましたとしても、帰る時にきっといろんな奴な狙ってくるから、今のうちに家へ運んでしまおうと考えたのだ。自分より背が僅かばかり高い三橋を担ぐのは大変だったが、日ごろ鍛えた成果というか、無事部屋まで運ぶことができた。 「なんで気づかねえかなあ」 俺にとっては、それが不思議でならない。体温を測ってみたところ、38℃。結構な高熱だ。頭も重いし、体もだるいに違いないのに。なぜ気づかないのだろう。 一応、額に濡れたタオルを乗せてはいるが、気休め程度にしかならないだろう。 とりあえず、重そうな学ランを脱がせてやらねば。俺はボタンを外して脱がせようとしたが、 「イトー」 三橋がぱちりと目を覚ました。 「あにしてんだ」 「う、動くなよ三橋、」 上半身を起こしかけた三橋を押さえようとするが、三橋はむくっと起き上がった。そして、自分の額から落ちたタオルを不思議そうに見つめる。 「三橋、あのな、お前熱あんだよ。安静にしてろ」 「熱?」 三橋が、ソレハナンデスカという顔で俺を見つめてくるので、「とにかく安静」と繰り返して、またベッドに横たえた。そして、改めて学ランを脱がせようとして気がつく。 ポケットの中の小銭だ。それが擦れる音に反応して三橋は目を覚ましたのだ。 心ゆくまで貧乏根性のある男だ。 「ほら、ちゃんと三百円、ポケットに入れておくから。ここに置くぞ」 三橋は子ども扱いされたように感じたのか、親切に介抱してやってる俺に向かって悪態をついた。まあ、いつものバカッパとかウニ頭とかだけれど。 「まだ熱下がりそうにないから、寝てろ」 「うー……」 心なしか目が潤んでいる。熱のせいかも知れない。頬も赤いし、呼吸も辛そうだ。関節も恐らく痛いのだろう、寝返りを打つ度に痛がっていた。そして呼吸もその度乱れる。 「イトー」 「なんだ、水か?」 しかし、それきり三橋が何も言わないので、俺は浮かせかけた腰をまたベッドの脇の椅子に落とす。 しばらくして、再び、 「……イトー」 寝言かと思って三橋の顔を覗いてみると、薄っすら目を開けている。 もしかして、ちゃんと隣にいるかどうか確認しているのだろうか。 「どうした、三橋」 優しく声をかけてやると、目を閉じてまた眠りに入る。 安心するまでここにいてやろう。俺は三橋の汗を拭ってやりながらそう考える。タオルは既にぬるくなっていた。 暗くなっても構わない。三橋がもう自分の名前を呼ばなくてもいい時までいよう。 しかし、見れば見るほど、時間が経てば経つほど三橋は辛そうだった。 息が切れ、喉が痛いのか呼吸しづらそうにし、寝返りを打つ度苦しそうに咳をする。苦悶の表情は痛みに耐えているのか。 やっぱり、家に帰って熱冷まシートを取ってこようと思い立ち、俺は立ち上がった。その瞬間、 「イトー」 名前を呼ばれる。見ると、三橋は潤んだ目で、じっと俺の顔を見上げている。さっきまですやすや寝息を立てながら寝ていた奴が、だ。 「三橋、ええと、その」 本当のことを言えばいいのに、なぜか声が出てこなかった。 結局、俺はもう一度椅子に座りなおした。三橋って本当に寂しがりだよな、と、今更実感する。 やがて、寝息が聞こえてくる。 今度こそ大丈夫か、と思い、俺は音を立てないように、静かに立ち上がった。僅かな衣擦れの音だけが、部屋に響く。三橋は何も言わない。俺はそのままドアの前まで足音を立てずに歩いた。ドアノブに手をかける直前、振り返って、ぎょっとした。 三橋が、じっとこちらを見ていたのだ。 相変わらず苦しそうではあったが、じっと、見つめている。俺の、目を。瞳を。その奥を。 「みつ……はし……?」 思わず声をかけてしまう。 物音を立てないように歩いたはずなのに。 「三橋、」 そして、俺は悟る。 俺は、いつの間にか大切なものになっていたんだ。三橋にとっての。 三橋はあくびをひとつした。 「全然眠れねえ」 俺はやっぱり家に帰るのはやめて、三橋の傍の椅子に座りなおして、「ごめんな」と言った。すると、どうしてお前が俺にそんなことを言うんだという目で見られたので、もう一度「ごめん」と言う。 三橋は目を閉じた。 気づけなくてごめん。 「ずっとここにいるから」 三橋からはすぐに静かな寝息が聞こえてきた。先ほどよりも安らかだ。深い眠りに落ちたのかもしれない。 俺は触れるような軽いキスを瞼に落としてみた。三橋はもぞもぞと動いて、バカッパと呟く。寝言なのか今の行為に対してなのかは、結局わからなかった。 |