温泉旅行の






 温泉に行きたいと三橋が喚き出すから、ついに折れたのは伊藤だった。
「行くか。一泊二日で。温泉旅行」
 貧乏で質素な家で育った三橋にとって温泉旅行など縁のない話で、行ったことなどなかった。しかし例によって知っているフリをしながら三橋は同意すると、二人はすぐに近場の温泉に出かけたのだった。
 もちろん、伊藤のおごりで。

「おおぉぉー! すげーぞ、見ろよイトー!」
 温泉には来たことあるだろうに、三橋は子供のようにはしゃいだ。そんな三橋につられるようにして、伊藤も気分が高揚してくる。
 一際驚いたのは、露天風呂の広さである。
 修学旅行でも露天風呂には入ったが、その時よりも広い。二人だけであったこともそれを助長していた。
「あー、あったけー」
 乳白色のお湯につかりながら、二人はしばし無言になった。静かである。早い時間だからなのか、ほぼ貸切状態の風呂は、二人の会話をなくさせるのに十分だった。
「温泉って、いいな」
 しみじみと伊藤が呟くと、至福という顔をしていた三橋も同意する。
「ロシュツブロって、いいな!」
「まあ、あながちマチガイでもないんだけどネ……」
 三橋は黙っていることに早くも飽き、誰もいない風呂の中を泳ぎ出した。一度泳ぐとこれがなかなか気持ちよくて、三橋は温かく、しかも肌は外気に触れて冷気が当たり心地よい。三橋は伊藤の前でこれは飽きずに続けた。
「オマエなあ……」
 呆れ顔の伊藤は、タオルを頭に乗せていて、
「……カッパじゃ」
 カッパだった。
 見れば見るほどカッパなので、
「プ……クク、カッパじゃ、カッパじゃ!」
 伊藤の頭を叩きながら伊藤の周りでばしゃばしゃ水を弾けさせながらはしゃぐ。伊藤は恥ずかしいのか少し顔を赤らめていた。
「あ……のよお、ミツハシ」
「カッパカッパ! カッパがフロに入っとるぞ!」
「お湯って、ローションの代わりになると思うか?」
 三橋は勢いよく立ち上がった。
「いい風呂だった」
 そのままスタスタ出口へと歩き出す。冗談じゃない、こんな癒し空間でそんな疲れることをしてたまるか。それに、ローションの代わりになんてなるわけがない。普通のお湯よりはすべすべしそうだが、そんな危険な橋は渡りたくない。
 第一、いくらここには自分たちしかいなくたって、誰かが来る可能性は大いにありうる。そんな危険な橋は、渡るまでもない。華麗に避けるだけだ。
「おい、ちょっと待てよ三橋! ちょっとした冗談だって。そんな全力でキョヒらなくてもよお……」
 ものすごい勢いで着替えて部屋へ戻ろうとした三橋を、同じく急いで着替えた伊藤が情けない声を出しながら追う。ちなみに、三橋は直感した。冗談というのは嘘だ。目がマジだったし。
 あ、しまった、部屋番号がわからない。



「いいか、俺は寝る!」
 三橋はそう高らかに宣言した。
「え、今から?」
 今は一時を少し回ったところである。三橋も初めてそれに気づいたが、いつでもどこでも、どんな状況にあろうと寝れるので関係はない。俺は寝るんだ、ともう一度繰り返す。
 今度は伊藤は何も言わなかった。
「ミョーな真似すんなよ、カッパ」
 念を押されて、伊藤はただ頷く。三橋はそれに満足して、気持ちのいい布団に潜り込んだ。どこでも寝れる、が、快適であるにこしたことはない。三橋は幸せだった。
「……あーあ、本当に寝やがって」
 伊藤の残念そうな声が、意識を失いかけた三橋の耳に届いて、その言葉が脳まで届く前に、三橋は夢の世界へとダイヴした。

 目を覚ますと、辺りは真っ暗だった。
 三橋はもそもそと体を起こして今何時であるかを確認した。もはや壁時計の針を確認できないほどの暗さとなっていたが、なんとか近くまで行って確認した。
 二時だ。
 寝過ぎて少し頭が痛い。三橋は欠伸を一つして、むくりと体を起こすと、何か飲み物が欲しくて窓の側にある小型冷蔵庫へ向かう。
 麦茶を飲んでふう、と息をつくと、ふと、窓の外を見た。カーテンを閉め忘れたのか、そこから漏れる光に目を引かれたのだ。
 そして、固まる。
 ――眼下には、一面に墓石が連なっていた。
 隣は墓場だったのだ。
「……だっ……」
 騙された!……三橋は数歩、後ろに後退りした。そういや伊藤はこの旅館は格安だったとか言っていた。こんな景観じゃ、来る客も来ないだろう。伊藤は騙されたのだ。三橋はすぐにカーテンを閉めた。
 動悸が激しい。
 暗闇が怖く思えてくる。墓場を見ただけなのに、「ここは出るぞ」と言われた気分になる。再び時計を見る。二時五分。理子が以前言っていたことを思い出す。「幽霊の活動時間は一時から三時なのよ」。今まで忘れていたのに、何で今、よりによって今、思い出すのか。三橋は身震いして、布団にいそいそと潜り込む。
 眠気はあるのに、うるさく鳴り響く心臓のせいで眠れない。
 後ろに何かいるような気がしてならないし、目を開くと目の前でにやぁ、と笑ったおばあさんがいるような気がする。
 駄目だ、これはいかん。
 三橋は自らを奮い立たせた。
 ようは、怖がらないような――安心するような状況を作り出せばいいのだ。自分で。
 三橋は意を決して目を開くと、布団から這い出た。
 そして、いそいそとすぐ右隣の伊藤の布団の中に潜り込む。伊藤は三橋に背を向けるようにして眠っていた。大丈夫大丈夫、いざとなったらこのカッパが盾になってくれるだろう。そうしたら自分は一目散に逃げるのだ。三橋は頭の中でその様を想像して、自分を納得させようとした。すると、
「ん……みつはし?」
 伊藤が寝ぼけた声で三橋の名前を呼ぶ。目を覚ましたらしい。
 心臓の音が、聞こえてしまうだろうか。いや、そんなことはないだろう――そんな自問自答を繰り返して、しかし結局は伊藤から離れられなかった。
「み、三橋?」
 ようやく状況を理解したらしい。突然背中に体を寄せた三橋に、伊藤は困惑した声が聞こえる。眠そうで少しかすれていたが、三橋に僅かに安心感を与えた。
「どうしたんだ、三橋」
 今度は、宥めるような口調で言う。三橋は「何でもない」を繰り返した。しかし伊藤にはそういう嘘は通じない。
「こんなに震えてんのに、まさか夜這いしに来たわけでもないだろ」
「夜這いじゃ」
 バレバレの嘘をついてまで虚勢を張る三橋が、さらに伊藤にしがみつく。
 寝起きとは言え、伊藤の中で何かたぎるものがあったらしい、伊藤はくるりと体の向きを反転させると、三橋をぎゅっと抱きしめる。三橋は震える体を更に押しつけて、少しでも多く、伊藤の体温に触れようとした。
 すると、伊藤がくるりと自分の体を反転させた。
「みつはし」
 耳元で囁かれて、三橋は体の力が抜ける。
「三橋、こっち向いて」
 三橋が顔を上げると、伊藤は突然キスをしてきた。三橋は驚いてただそのキスを受ける。抵抗などは考えなかった。伊藤が舌を入れてきたので、抵抗をしている暇がなかったというのもある。
「い、イト、……ん、む、ぅ」
 何すんだの一言もいえない。
 伊藤のキスは、妙に安心できたからだ。
 しかし。
「い、イトー! 何す、う、んふぅ、ん、」
 伊藤の手が腹のあたりをまさぐり始めたので、さすがに三橋は焦った。すぐに抵抗するが、先ほどまで恐怖に怯えていた体はすこしも動いてくれない。伊藤が邪魔な上着をよけると、浴衣姿だった三橋は簡単に伊藤の手の侵入を許してしまった。
「体、冷たいな」
 伊藤が独り言のように言う。本当に独り言だったのかもしれない。先ほどとは全く違う意味で早鐘を打つ心臓のせいで、三橋の思考はかなり乱されていた。
 伊藤の手は、次に太ももの辺りをまさぐり始める。優しく撫でて、その指をどんどん付け根へ向かって滑らせていく。三橋は思わず両手で口を押さえた。そうでもしないと、うっかり声が出そうだったのだ。
 しかし、呼吸の乱れはどうしようもない。
 それは、伊藤に"感じている"と宣言しているようなもので、イヤだったけれど、抑えられない。
「三橋、いいよ、声出して」
 テメーの許可が得られないから声出してなかった訳じゃねーんだよ。口には出せないので心の中で悪態をつく。もちろん、声を我慢するつもりだったのだが、
「声出せよ、誰もいねえから」
「は、ぁうっ」
 いきなり中心に触れられて、三橋は嬌声を上げる。
「て、め……ずりぃぞ」
「何で? もう勃ってんじゃん」
 伊藤は平気な顔で、二度三度、そこを擦る。
「あ、ばっ……や、め……あ、ぁ、」
「気持ちいいだろ」
「……るせー、バカッパ、ぁ、は、あ」
 どんなに強がっても、声が出てしまっては説得力がない。でも、声を抑えることができない。
「夜這いに来たんだろ?」
 三橋は何も言わずに呻いた。自分のついた嘘がよもやこんなことになろうとは。いや、違う。三橋の言葉はキッカケにすぎない。その言葉をいいことに、伊藤が今好き勝手やっているだけだ。
「この、エロガッパ……」
 伊藤は喉の奥で笑った。
「オマエってホント、強がりだよなあ」
「は……」
 いろいろ言いたいことはあったが、いろいろ言っている余裕もなかったので、とりあえずこの状況をどうしようか考えた。が、ここで一人になってしまっても困る。かといってこのままなし崩しに寝るのも、なんというか……癪である。
 行為に対してではなく、その行為を自分が受け入れてしまうのが、癪である。
「な、三橋、いいだろ?」
「なに、が」
「しようぜ」
 伊藤が三橋の首筋に噛み付く。息を詰めて声をやり過ごそうとするが、声にならない声が口の端から漏れる。伊藤がそれを聞いて更に首筋を責めた。甘噛みして、場所をずらしてそれを繰り返す。
 三橋の体がだんだん熱くなってきた。
 緊張が緩和されたのだ。それは体がほぐれてきたことを意味する。
 それを見計らったかのように、伊藤が三橋のものを握った左指を上下に激しく動かす。
「ぁ、待っ……」
 静止の声も聞かずに伊藤は三橋を攻め立てる。
「ふ、ぁ、イトー、イクッ……!」
 次の瞬間、三橋は体全体を震わせて射精した。
 布団を汚してしまった、という罪悪感よりも、今日はここでは寝られないな、ということを思った。自分の布団ではないが。
「結構早かったな」
「うるせえ!」
 三橋は膝で伊藤の足を蹴った。伊藤は「痛ぇ」と呻いたが、行為をやめる気はないようだ。三橋の精液がべっとりとついた左指を、後ろへとあてがう。
 途端に、不安と期待が胸に広がる。
「いれるぞ」
 律儀な伊藤は律儀にもそう言ってからゆっくりと指を埋め込んでいく。ここまでされて他に何をするんだと思ったが、何も言わない。三橋がセックスをあまりやりたがらないのは、言いたいことがちっとも言えなくて不満だということも大いに関係している。気持ちいいのは好きだけど。
「……、ふ……」
 大きく息を吐いていつまで経っても慣れない感覚に耐える。程なくして、伊藤は指を動かし始めた。
「……く、うぅ、ふっ……」
「大丈夫か? 声抑えんなよ」
 伊藤の大丈夫かには大丈夫だよというニュアンスが含まれている。一見心配しているというようなことを言っているが、つまりは大丈夫だからそんな不安そうな顔をするなと言いたいのだ。こんな暗い中で三橋の顔が見えているか定かではないが。
 しばらく指を動かして後腔から引き抜くと、伊藤がその指で三橋の右足を掴んで、そのままぐっと引き寄せる。そして脇の下まで持ってくると、今度は熱くて固いものがあてがわれた。
 伊藤のものだとすぐにわかる。
「いれるぞ」
「言うな、よ!」
 ゆっくりと、伊藤のものが飲み込まれていく。三橋はなるべく息をゆっくり吐き、力が入らないように意識しながら受け入れる。全部入ると、息苦しさに苦しくなるが、同時に何か違うものが腹の底からわきあがってきた。
 期待。
 高揚。
「動くぞ」
 伊藤はゆっくりと腰を動かし、同時に右手で三橋のものを扱き始めると、初めはただ苦しいだけのそれも、別のものに変わってくる。三橋は息を荒くして喘いだ。
「あ、ふぁ、あ、んぁ、っ……!」
「中、すっげー熱ぃ……」
 伊藤の呼吸も乱れているのがわかる。中で感じてんのかな。そう思うとちょっとだけいい気分になる。こいつを満足させられんのは俺しかいないんだ、という、優越感に浸るのだ。
「うあ、は、ああ、い、とー、イトー」
 腰の動きは激しさを増す。三橋も奥まで突き刺さるように腰を動かす。これは不可抗力だ、だって、気持ちいい方が絶対にいいから、と自分に言い聞かせて。
「あ、うぁ、イトー、イク……!」
「俺も」
 ぐっと息を詰める。
 あまりの快感に、三橋の目から涙が零れ落ちる。
 二度目の射精。同時に三橋の中で熱いものが弾けた。
 後に残されたのは二人の荒い呼吸と、ぐったりとした疲労感である。
 何に怯えていたのかさえもわからなくなってきた。……そこで、三橋ははっと気がつく。
「そうだ、イトー!」
「な、なんだよ」
 伊藤が自分のを引き抜きながら返事をすると、三橋が伊藤を一発殴った。射精後でまったく力の入っていないパンチだったが。
「テメー、騙したな!」
「な、何が?」
「外だよ、外!」
「外?」
 伊藤は窓へと目を向ける。カーテンで窓の向こうの最悪な景観は隠していたが、伊藤は気づいたようで、ああ、と頷いた。「あれね」
「あれね、じゃねー!」
「安かったし、つい、な。お前苦手なの知ってたけど、隠しときゃ大丈夫かなー、なんて……ははは」
「金持ちのくせにケチくせえぞ」
「なんだよー。じゃあよ、お前、一万円のいいとこの旅館と、ちょっと気持ち悪いけど同じくらいいいとこで、五千円の旅館あったらどっち選ぶんだよ」
「行かない」
「……選択肢にないんですけど……」
 それに、もともと行きたいと言ったのは三橋だろ、とぶつぶつ伊藤が言うので、三橋はそれを聞かずに、腰を労わりながら立ち上がった。
「風呂?」
「ん」
「俺も行く」
 三橋が伊藤をじっと見つめる。
「……え、なに?」
「変なことしたらぶっとばすからな」
「そ、そんなことするわけねえだろ、しないって!」
「目がマジだったんだよ!」
 今度は躊躇うことなく、口に出して叫んだ。


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