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彼ら
知っていた





 荒い息が交錯して、三橋はのろのろと体を起こした。そして、上着とズボンを手繰り寄せ、一つ息をついてから、着始める。
「三橋、泊まってかないのか?」
 伊藤が慌てて声をかけると(今はもう十時を回っている)、三橋は短く「いらん」とだけ答えた。何がいらないのか、変な答え方だったが、恐らく「泊まって行かない」と答えるのが億劫だったのだろう。そこまで疲労しているのに、なぜ泊まろうとしないのか、伊藤は何となくわかる気がした。
 だからこそ、伊藤は静かに缶ビールを持ち出したのだ。
 三橋は最近やたら頑固になってきている。それはおそらくほとんどが自分に起因するのが心苦しい話だが、仕方がない。だから伊藤は伊藤なりに三橋につくすことに決めたのだ。
 だから、ビール。
 というか、アルコール。
 これは親に隠れてこっそりと買ったものだ。もちろん、普段着で、髪も下ろして買いに行った。冷蔵庫に入っていなかったからぬるいが、どうせジュースにちょっとだけ混ぜるのだから関係ない。
 ちょっとだけ、ちょっとだけだ。あまり体に悪いものを飲ませられない。
 伊藤は誰もいなくて暗いキッチンに一人で立ちながら、どのジュースに混ぜようか考えた。一応、激しい運動をした後にはアクエリアスなどの清涼飲料水だが、それだと味がばれてしまうかも知れない。だとしたら、やはり炭酸か、ビールの味が隠れてしまうほどの苦いコーヒーか――。
 その時後ろで、プシュ、という音が聞こえた。
 慌てて振り返るが、時既に遅し。
「み、三橋、待てそれは、」
 ごきゅ、ごきゅ、と、いかにも美味しそうに喉を鳴らしてどんどんとビールを飲んでいく三橋を、伊藤は呆然と見つめた。一気飲み。
 三橋は僅か六秒で缶ビール一本を飲み干した。
「三橋、大丈夫か? 気持ち悪くないか?」
 伊藤が背中をさすると、三橋はどんなに機嫌のいい時でも見せないような極上の笑みを浮かべながら、
「大丈夫だよ」
 と言った。
「大丈夫なわきゃねーだろ、お前意外に酒弱えーんだからよ」
「ご、ごめん」
 伊藤の剣幕を恐れたのか、三橋は自分が今飲んだものがアルコールだと気づいていないだろうに(そもそも、飲んだことさえわからないのかも知れない)、とりあえず謝った。普段の三橋とは百八十度違う姿に、いまだに伊藤は慣れないが、ともかく結果オーライだ、と気を取り直した。
「三橋、今夜は泊まっていけ。お前、疲れてるんだろ?」
「疲れて、ない」
 あれ。
「眠いだろ? 寝るよな?」
「眠くない、」
 あれれ?
 まだ正気なのだろうか。いや、そんなはずはない。伊藤は混乱する。普段の三橋は自分が酒を飲むとどうなるのかわからないはずだ。だから三橋が正気のまま演技しているはずはない。だとしたら、あの素直な三橋が、我が儘を言っているのか?
「三橋」
 三橋は赤い顔で、相変わらずにこにことしている。
「お前、何がしたいんだ?」
 そうだ、わからなかったら直接、こうして聞いてしまえばいいのだ。普段の三橋よりはずっと素直なはずだから、答えてくれるだろう。
 しかし、三橋はじっと伊藤の顔を見つめていた。口は開く気配がない。なんとなく目線を外せずにいると、三橋が急に伊藤の両腕を掴んだ。そして、そのまま伊藤を押し倒す。押し倒した、というよりは、バランスを崩して倒れこんだ結果、という風だった。伊藤は唖然としてにこにこしている三橋を見つめると、考えるのをやめた。
 三橋がそうしたいと考えているなら、それに応えてやる。そう誓ったはずだ。
「イトーくん」
 眠いのもあり、アルコールが入っているのもあり、三橋はとろんとした目で伊藤を見、呂律の回っていない舌で伊藤の名を呼んだ。
 キス。酒臭い。苦い。
 三橋は暗闇の中で伊藤のズボンをまさぐって、先ほど締め直したばかりのベルトを不器用に外し、ズボンも下着も脱がせてしまうと、外気に晒された伊藤のものを、上に座るようにして後腔に挿れる。
「……は、ぁ」
 ゆっくりと息を吐き出す姿は、やはり三橋だ。普段もそうやって、ゆっくり息を深く吐き出す。そして、ちょっと痛みに耐えるように顔を顰めるのだ。今回は情事の後というだけあって、スムーズに挿入できたのであまり痛みはないようだったが。
「イトー、くん」
 ゆっくり三橋が腰を上下に動かし始める。
「好き」
「……え、今、なんて」
「好き、イトーくん」
 伊藤は柄にもなく赤面した。暗くてよかったと心底思う。
 やっぱり、今の三橋はいつもの三橋よりずっと素直だ。
 しかし、続く一言が、
「イトーくんは?」
 いつも三橋を、そして伊藤をも悩ませている言葉だった。
 俺は?――伊藤は自問する。
 答えればいいのか?
 一体なんて。
 気持ちはある。こうだという、自分の気持ちは確かに持っている。でも、それを言葉にしてはいけない。だから何も言わない。
 お前が好きだと言えばじゃあ京子はなんなんだと軽蔑されるし、京ちゃんだと答えればきっと俺はどうせ体のいい憂さ晴らしなんだろとか言うに決まっている。正しい答えなど存在しないのだ。どちらにとっても。それをわかっておきながら、三橋は答えを求めているのだ。
 前言撤回。今回は何かと、三橋は我が儘だ。普段より、ちょっとだけ。
「ねえ、イトーくんは?」
 三橋はひどく苦しそうな顔をしていた。それは性交による強すぎる快楽のせいなのか、それとも別の、三橋を苦しめる……何かが存在しているからなのか。
 わかっているくせに、多分どちらも、気づかないフリをしている。
 誤魔化し続けている。自分を。互いを。
「イトーくんは、好き?」
 不意に、あたたかいものが頬に触れた。そっと手で拭ってみる。拭ってみなくても、わかるけれど。
 涙だ。
「僕のこと好き?」
 ぽた、ぽたぽた。
「好き、」
 ぽたぱた、……ぽたっ。
 あったかい。



 三橋が目を覚ましたのは十二時近くなってからだった。
 もちろん、昼の、である。
「……んにゃ? イトー?」
「おそよう。やっと起きたか」
 三橋はきょろきょろと辺りを見渡す。予想通り、何も覚えていないようだった。
「はり? 俺、昨日泊まったんだっけ」
「お前が居間でぶっ倒れるからよ、仕方なく俺が寝かせてやったんだよ。あんまり無理すんなよ」
「倒れた?」
 本当に全く記憶にないらしい。眠い目を擦りながら、必死で昨夜のことを思い出そうとしている三橋を見て、伊藤は少し、本当に少しだけ、後悔する。
 どうせ覚えていないのなら、一度だけ、言ってやればよかった。
 好きだって。
 お前だけ好きだって。
 言ってやればよかった。あんなに苦しそうに、悲しそうに泣いていたのに。
「うー、覚えてねえ……」
 三橋は鏡を見つめながら、頬に残った涙の跡を、不思議そうに見つめていた。


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