ちりり
いたい





 夜風がやけに傷に染みた。イテェ、と小さく呟きながら夜空を見上げると、星が一面に広がって、瞬いていた。三橋は星座などてんでわからないが、満天の星空を見て、気持ちがいくらか和らいだ。
 ふと視線を落とすと、ノしたばかりの男が三橋を睨みつけていた。三橋は眉を吊り上げて足を上げる。そして、躊躇うことなく男に何度か蹴りを入れる。
「二度と千葉で俺よりでっけー顔すんじゃなねえ」
 男はぐったりしていて、気絶したのかもしれないと三橋は考えた。
 今日は星が綺麗だ。つまり、明日は晴れる。
 三橋が家に帰ろうと、一歩を踏み出した時。
「こ、の……ろう……」
 気絶したと思っていた男が三橋の右足をぐっと掴んだ。咄嗟に振り払えないほど強い力で、更に男は、近くに倒れていた仲間の側に落ちていたカッターを手に取った。
 刃は出ている。仲間が使っていて、先ほど三橋が蹴り上げたものだ。三橋は掴まれた右足を振り払う前に左足で相手の、カッターを持った左手を踏みつけた。痛みに呻いている相手の手から零れたカッターを蹴ると、もう何度か蹴りを入れて、三橋は思わずため息をついた。
 明日は晴れか。伊藤の家でも行こうか。
 三橋は軽く伸びをして、欠伸を一つして、歩きだそうと、一歩、踏み出した時。
 突如走った衝撃に、三橋は一瞬息を詰まらせた。
 足だ。右の太ももの辺りに強い衝撃を感じて、何が起こったのかわからないが、立っていられなくなって膝をついた。後ろからからん、という音が聞こえて振り返ると、さっきの男……の、仲間がニヤリと笑って立っていた。しかし、フラフラだ。
 地面に落ちていたカッターはさっき蹴ったのは違うものだった。ゲー、カッター二個も持ち歩いてんのかよ。三橋は瞬間的に血がのぼって、ムカつく顔にパンチを喰らわせてやると、いとも簡単に相手は倒れた。
「くそったれ」
 三橋はそう吐き捨てて、立ち上がろうとしたが、その時初めて、思い出したように痛みを感じた。
 血の付いていたカッターをそっと振り返る。
 痛みを感じたら、脂汗がでてきた。
 右足を軽く引きずりながら、三橋はもう一度、くそったれ、と呟いた。今度は、酷く苦しげで、掠れた声だった。



 すがすがしい青空とは裏腹に(屋上だから、よく見えるんだ)、三橋はイライラが募り、伊藤に当たっていたら伊藤は嫌そうにしていた。まあそんなのはいつものことだけれど今日は特に機嫌が悪くて伊藤は怒るというよりは不思議がっていた。
 三橋だって、確かに機嫌は悪かったが、100%怒りからきているわけではない。なかなか引かない痛みのせいもあれば、その足を庇わなければいけない、それも周囲に気づかれないようにしなければいけないもどかしさのせいでもあった。一番は悔しさと、そこから来る、どことなくだるい、虚無感というか、諦観のようなもののせいだった。
「三橋?」
 伊藤が眉を顰めつつ、顔を覗きこんできた。
「お前がため息なんて、珍し……くはないけど、なんていうか、その、」
「ああ? なんだよ」
「そうだ、そう、他人を馬鹿にする時以外にため息つくなんて珍しいな」
 う。
「うるせーバカッパ!」
 思わず伊藤を殴ると、伊藤は、素早いパンチに反応できずにまともに三橋の拳を喰らって、「あでっ!」と声を上げた。少しだけ三橋の気分がよくなる。
 しかし今日の伊藤は何となく鋭くて(普段は絶対そんなことはないのに!)、やはり訝しげな表情を消さずに、「なんかあったの?」と聞いてきた。そりゃあ"なんかあった"から動くのは人間の真理であって、立つのにも座るのにも"なんかあった"からするわけで、そりゃあ、伊藤を叩くのにこれといった理由もないけれど。
 とまあ、頭の中で屁理屈をこねくり回してみたけれど、つまりは図星だから少し悔しかったのだ。
 とりあえず「うるせー」と呟いてかわしておく。
 すると、伊藤がじいいぃぃ……と、三橋を見つめてきた。三橋は少したじろいで、伊藤の視線を控えめに受け止める。
「な、なんだよ」
「三橋、お前……」
「おう」
「ケンカ、負けたのか?」
 言葉を失った。
 伊藤の言葉は当たらずとも遠からずといったところだが、いや、絶対違う、負けたわけではない、と三橋は心の中で弁解して、殴ろうかと考えたその沈黙をどう受け取ったのかわからないが、更に伊藤が、
「いや、負けただけじゃないよな。負けただけならすぐに仕返しするだろうし……そうとう酷いやられ方したのか? お前が戦意喪失するくらい」
 とかなんとかほざくものだから、三橋は思い切り伊藤を殴った。
「いっ!?」
「誰が負けたって? ――勝手に人を負け犬にすんじゃねー!!」
「い、痛いって、三橋!」
 手加減を忘れてボカボカ叩いていたら、不意に足に刺すような痛みが走って、そういえばそうだったと思い出す。不意打ちだったので、思わず足を気にしてしまって、そして、それを伊藤が見逃すはずがなかった。
「三橋?」
「な……なんでもねーよ」
 何も言われないうちからなんでもねーよなんて言ったらなにかありますよと言っているようなものなのだが、三橋はそう言って後退るしかできなかった。どうやら伊藤と一緒にいることによって思考が鈍ってしまう傾向があるらしい。
「足……?」
 不自然に体重が左足に乗っているのを見て、伊藤がそう呟く。気づかれた。今日は嫌な日だ。よりにもよって伊藤に。伊藤に気づかれた。ああもう駄目だ俺は終わりだ。三橋は逃げ出す算段をする。頭の中で思い浮かべる。ちょっとなら走ったって我慢すればいい。
「三橋。お前逃げようとしてるだろ」
 げ。
「ちょっと見せてみろよ。どこやられたんだ」
 伊藤が三橋の足に手を伸ばす。ふくらはぎの辺りをそっと触って、そっと指を滑らせる。学ランの上からだったのに、なぜか三橋は背徳的な気分になった。情事の時、伊藤はいつも三橋の足を触るからだ。綺麗な足だと言われたこともある。その時はエロガッパとかなんとか言ってやったけど、今それを思い出して、なんとなく気まずくなる。
 しかし、段々指を上へ上へと上げていくので焦った。このままだと太ももの裏まで行き着いてしまう。三橋は身じろぎしたが、伊藤はそれを無視して指を滑らせていく。
 いつもなら蹴り上げてしまうこともできたのだけれど、太ももの傷が意外に深くて(多分あいつの体重分、刺されたはずだ)それはかないそうになかった。
「……ってぇ」
「ここ?」
「あんまり触んな」
「ココ痛いとさ、立ってて辛くない? 座れば」
 なんで伊藤に指図されてんだ?
 と思ったものの、伊藤の言うとおりで、実際立ってるのが辛かった。しかたないのでその場に腰を下ろす。すると、体勢がなんというか……アレで、三橋は伊藤から視線を逸らした。
「ミツハシ」
「なんだよ。もういいだろ」
「ボンタンの上からじゃ、よくわかんないんだけど」
 は?
「なあ、脱がせてもいい?」
 はあ?
「無理、却下」
「な、なんだよそんな頭ごなしに」
「エロガッパ」
「いや、ミツハ……」
「ウニ、カッパ」
「ただの悪口になってんじゃねーかよ!」
 伊藤はしかし、三橋の意見をまるで無視して、早速と言わんばかりに三橋のベルトに手をかける。三橋としては殴ることもできたのだが、そんな気も失せてしまった。
 傷口は、深いけれど見た目は大したことはない。打撲とかの方がずっと気持ちの悪い色をしているし、擦り傷の方が化膿する危険性が高い。傷口を確認したらすぐに解放してくれるだろうと踏んだのだ。ここは屋上で人が来ることもあるのだから、変なことにはならないだろう。
「うわ、痛そ」
 足首までボンタンを下ろすと、伊藤はそのまま右足を持ち上げて傷口をまじまじと見つめる。今更だが、なんて格好だ。
「痛くねえよ」
「痛いだろうがよー」
「痛くねえよ! バカッパ!」
 叩こうとしたら避けられた。そういうところがむかつく。ますます気に入らない。しかし、伊藤は何か気になるところがあるようで、じっと見つめながら、僅かに小首を傾げている。
「あのさ、三橋ここちゃんと消毒した?」
「あん?」
「だから、傷口をちゃんと消毒したかって」
「んなめんどくせーことしてねーよ。普通に風呂入って寝た」
 伊藤は再び傷口をよく見る。
 そんな顔近づけんなって言いたいのに、言ったらなんか意識してるってことを自分から言っちゃうってことでそれは避けたかったので何も言わなかった。
「これ、何で切られたわけ? カッター?」
 何でわかんだろ、と思ったら、一人で頷いて「ナイフじゃこんな傷ちっちゃくねえしな」と呟いている。
「錆びてたんじゃねえか、そのカッター」
「そんなん俺が知るか」
「傷口、色がちょっと変だぞ。黄色くなってるっていうか、青くもなってるし」
 え、それは気づかなかった。
 自分じゃ触ることでしか傷口の様子がわからないから、気づかなかったのだ。三橋は少しだけ不安になる。殴られることはしょっちゅうだったが、こういう刃物で傷つけられることは普通はない。しかも、錆びてる……。
 手入れくらいしとけよ!
「ちゃんと消毒しろよ、三橋。化膿するかも知れないし」
 それは嫌だ。
 帰ったらまずマキロンでも探して傷口にぶっかけよう……と、思っていると、急にちりりとした痛みが走った。
 慌てて見ると。伊藤が傷口に舌を這わせている。
「おい、イトー、てめー、なにやってんだ!」
「ちょっとでも消毒になるかなって」
「なるわけねーだろこのエロガッパ!」
「でもほら、怪我したらツバつけとけって言うじゃんか。その要領で」
 無茶苦茶だ。
 大体、場所が悪い、場所が。
 伊藤は……慣れてるかも、しれないが、三橋からしてみたら羞恥以外の何も感じない。いや、たまに、感じるけど、でも大半は恥ずかしいどっか行け放せといったことしか思わない。
「い……っつ……」
「痛いか」
「いたい」
 そりゃあ、痛い。
 痛いし、それに、なんか、いやだ。
 違う違う、駄目だ。こんなカッコで、こんな体勢でいるから痛みをなにか、違うなにかと勘違いしているだけなんだ。三橋は痛みだけに集中しようとした。伊藤の舌のねっとりとしたぬくみを忘れようとした。というかコイツ、確信犯か?
「う、……やめ、ろ、このカッパ……!」
 なんだか雲行きが怪しくなってきた。
 三橋はなんとか伊藤の魔の手(いや、舌)から逃れようとしてもがこうとしたが、力が入らなくてそうすることができない。悔しい。悔しいけど、でも……なんだか振り払えない。
 伊藤はちらりと三橋を見ると、今度は舌を移動させ始めた。
 待て、消毒するんじゃなかったのか?
「お前、この、チョーシこくんじゃねえぞ……」
 ぎり、と伊藤を睨みつけると、伊藤は誤魔化すように笑った。
「いやあ、はは」
「放せ!」
「なんか三橋がエロかったからさあ……いや、本当に下心はなかったんだって! これっぽっちも!」
「黙れ!」
「いいだろ、ちょっとだけ、一回だけ!」
 三橋は期待するように見上げる伊藤の目を見つめた。だらしなく下がった眉毛を見ていたら、なんだか沸々と怒りがこみ上げてきて、体に力が戻った。あのカッター野郎の前に、こいつだ。このカッパだ。
 よしよし。
 腕なら動くんだよ、イトーくん。
「放せエロガッパ!」
 オーケー、ジャストミート!


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