甘酸っぱくてちょっと苦い。 その日は朝から暑い日差しが続いていて、どことなくいつもより体がほてっている感じがする。加えて、胸の内にモヤモヤというか、ジワジワというか、何とも言いようのない不快感が渦巻いているのだから、三橋の機嫌は最低だった。 「なあ、三橋、暑いからってそんなにカッカすんなよ」 「ウルセーボケ」 「あのなあ……」 「カッパ」 「……」 「ウニ頭」 いつもより思考が鈍っているはずなのに、いつもより暴言が口からあふれ出るスピードは速い。なぜか、伊藤の顔を見ると、心の中のドロドロは増幅して、三橋をイラつかせるのだ。学校にいる時はまだよかった。二人になると、これだ。 正体がわからないのは、まだいい。わかったところで気詰まりな状況は変わらないし、何となく、それが自分を更に不快にさせるだろうことも予想はできる。問題は、イライラを増幅させる人間だ。これがいとうじゃなかったら、もう少し――ほんの少しだけ、楽だった。かもしれない。 「ホラ、三橋」 突然ひんやりしたものが頬に当たって、しかし、缶ジュースのようなきりっとした冷たさはなく、しかも柔らかかった。ふんわりと柑橘系の匂いが漂う。 見るとそれは、鮮やかなレモンエロウの、檸檬だった。 いきなり「ちょっとここで待ってろ」と言われたかと思えば、こんなものを買いに行っていたのか。三橋は甘いような、酸っぱいような香りを思い切り吸い込んだ。 「暑い時は、やっぱり檸檬だろ」 ちらりと、伊藤の手にも同じく、紡錘形の檸檬が握られている。 「テメー、自分で食いたかっただけだろ!」 「い、いいだろ、三橋にも買ってきてやったじゃねえか」 三橋はしばらくの間、頬に檸檬を押し当てながら歩いた。そうしていると、大分気分がよくなって、心なしか足取りも軽くなる。何が三橋の琴線に触れたのかはわからないが、この香りと、形と、仄かな冷たさ、手触りのよさがよかったのかもしれない。先ほどまでの重苦しい気分は嘘のように消えていた。すると、機嫌を直した三橋に安堵したのか、伊藤が「ちょっと俺ん家で涼んでくか?」と言ってきたので、もちろん三橋は二つ返事で頷いた。 「カネモチのクセに、ケチな奴め」 「エコだよ、エコ。エコロジー!」 「お前それ意味わかって使ってんのか?」 もちろん、三橋もなんとなくしかわからないが。 伊藤は立派なクーラーがあるにも関わらず、わざわざ扇風機を取り出してきた。ぶつぶつと文句を言っていた三橋だったが、これが存外気持ちがいい。爽やかな風とはいかないまでも、ささやかな風が、パーマのかかった髪を揺らす。 「そういえば、この檸檬って、」 伊藤が寝転がりながら檸檬を三橋の頭にかざす。 「三橋の髪の色にちょっと似てるよな」 「アホか! 檸檬の色と俺の金髪を一緒にするな!」 伊藤は眠いのか、瞼を半分落としながら檸檬を弄んでいた。目の前に扇風機があるのにも関わらず、それが唯一涼しいものだというように。しかし、やがて眠りに落ちると、手の中から単純な色の檸檬が床に転がり出た。 「イトー」 三橋は自分の中にある檸檬とそれを見比べながら、小さく伊藤の名前を呼ぶと、伊藤はその声が聞こえたのか否か、僅かに身じろぎした。 それを見て、三橋はなんだか先ほどまであった憂鬱に限りなく似たモヤモヤが、再び姿を現すのを感じていた。にも関わらず、自分の口は持ち主の意に反して、言葉を紡ぐ。 それはある意味、実験だった。 「イトーサン」 小さく、呟いてみると、伊藤はふにゃりと口を歪めて、馬鹿みたいに幸せそうな顔で、 「京チャン」 と、言った。 三橋の拳に力が入る。と、途端に甘酸っぱい香りが広がって、見ると右手の爪が檸檬の皮に食い込んでいた。そのビジュアルの痛々しさとは裏腹に、爽やかで、かつ涼やかな柑橘系の香りがふわっと漂っている。 手の中の檸檬をじっと見つめると、小さく呟く。今度は、独り言。 「これは、バクダンじゃ」 皮と爪の隙間から零れ落ちた汁がぱたた、と数滴床に滴る。 未だ新鮮な匂いを放つ檸檬を、そうっと、伊藤の胸の上に置く。伊藤はぴくりとも動かなかった。しかし胸は僅かに上下していて、そのたびに檸檬も同じく上下する。生きているということを実感させる動きだ。それもこの爆弾が爆発すれば、終わる。脈動が、絶える。 三橋は、今度は伊藤の手から零れ落ちた檸檬を手に取ると、 「これも、バクダン」 思い切り、かぶりついた。 |