むう、と、唸り声を上げながらノートパソコンの画面をじぃっと見つめていると、いい加減呆れたのか、火村が溜め息をついた。
「ここまで来て仕事するな。仕事があるならここに来るな」
 何かのキャッチフレーズのように口ずさむその言葉を、アリスは軽く無視した。火村は、言葉ほど怒ってはいない。それをアリスもよくよく心得ているのだ。
「……アリス」
「んー?」
 生返事。
「寝てもいいか」
「ああ、眠かったんか? 悪いな。電気は消していいから、ゆっくり休んでや」
 やっとモニターから顔を上げて火村の方を見る。火村は大きな欠伸をして、それじゃあお言葉に甘えてとばかりに立ち上がった。ソファに横になっていたせいか、もう半分寝ているような顔をしている。アリスはそんな火村を見送ってから、彼が寝室のドアを閉める音を聞き、作業を再開した。
 ああ、もう。――そんな悪態を心のなかでつきながら、パソコンのキーボードを思い切り叩く。
 折角ここまで来たのに、どうしてこう、自分は遅筆なのか。

「できたッ!!」
 と、叫んだのは朝方になってからだった。
 時計を見ると、五時近い。家にいる時よりも筆――厳密に言えば、指――が進むのは、ここが火村の家だから、かも知れない。劇的なペースで仕事を終わらせ、完成の余韻に浸っていた。これをとりあえず担当に送りつけて、残り僅かな助教授の休日を一緒に満喫する。ああ、そうだ。自分はそのために来たのだ。久しぶりに一緒に酒を飲むために。アリスは真の目的を思い出し、とりあえず今しがた完成した作品を保存すると、パソコンを消して、大きく伸びをした。
 火村が連休があるというので、じゃあ自分ももう少しで今の新作を終えられそうだから久しぶりに飲みに行こうかと言い出したのは自分である。しかし、数日足りなかった。数日分を一晩ででかしたのだから、アリス自身の中では快挙なのだ。
 恐らく、火村はまだ寝ているだろう。小説を完成させた(もちろん、これから手直しや加筆などしなければいけないことはたくさんあるが)喜びを今すぐ誰かに伝えたい気分だったが、休日は十時に起きるほど朝の弱い彼を無理矢理起こすわけにもいかない。
「……ちょっとだけ、寝るか」
 アリスは傍にあったソファにばふんと思い切りダイヴして、昨夜火村がそうしていたように、足を伸ばして横になる。ふぅ、と息をつくと、どっと眠気が押し寄せてきた。自分は夜型の人間だから、夜中に仕事をしていてもあまり苦にはならないが、だからといって睡眠をとらなくてもいいということではない。それとこれとは全く別物で、やっぱり睡眠時間は多い方がいいのである。
 ああ。眠い。疲れた。腰が痛い。
 昨日は満足に火村と話ができなかったから、近況報告だけでも、ちゃんとしなければ……。そんな取り止めのないことを考えながら、アリスは寝息を立てた。



「アリス」
 と、呼ぶ声がした。
「アリス、おい」
 もう一度。
 薄っすら目を開くと、そこにいたのは火村だった。そりゃあ、声が彼のものだからアリスだって気づいていたが、一瞬、どうして火村がここに、と思ってしまった。少し意識がはっきりして、ああ、そういえばここは火村の家だったな、と思い出す。頭が少し痛い。
「いい加減起きろよ。もう十二時だぜ」
「そんなん、お前に言われたく……十二時!?」
「なんだよその驚きようは。嘘だと思うなら時計を見てみな。ほうら、もうすぐ長針と短針が揃うぞ」
 慌てて時計を見上げると、確かにその通りで、十二時まであと五分もない、といったところだった。上半身だけ起き上がったまま、束の間呆然とする。
 頭の中で計算すればいいのに、なぜか指を折って数えてしまう。六、七、八、九、十、十一、十二。
「七時間も寝てたのか……」
「何? 俺より寝てるんじゃないか?」
「阿呆。君は昨日一時に寝たやろ。十時に起きたとして、明らかに二時間多い」
 何だか朝――否、昼――から気の抜けたようなやりとりだが、とりあえずアリスは起き上がって口をすすぎ、火村に昼食という名の朝食を所望した。実のところ、いい匂いが鼻腔をくすぐっていたのだ。
 朝食を食べ終えて歯磨きも着替えも済ませ、ようやく落ち着いた時は一時。
 今度は昼下がりの陽気に眠気を誘われる。
「おっと、寝るなよ。お前が寝るといつ起きるかわからないからな」
「よう言うわ」
 二人で軽く笑うと、自然に、唇が重なった。
 笑い声のように、軽いキスだったけれど。
 アリスは、満面の笑みを浮かべ、自分が今幸せだということをアピールした。対する火村は、口角の端を吊り上げて、ニヒルに笑った。
「それじゃあ折角仕事も終わったことだし、もう一仕事行きますか、センセイ」
「……阿呆」
 真昼間からなんてことを言うんだ……と言おうとして、結局、そんな子供じみた悪態しか出てこなかった。


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