とおみくじとEMC






 ひんやりした空気が頬に当たる。しかし、不思議なことに、寒いとはあまり感じなかった。今自分が着ているコートが上質のもの――少なくとも、僕にとっては――であることもさながら、やはり人が密集しているから、というのが一番の理由なのではないだろうか。
「活気がありますね」
 と僕が言うと、
「そら、お正月やからな。新年って、なんかめでたい気ぃするやん」
 と望月が返した。気がするというより、お正月とはもともとめでたいものだ。新年に浮かれて、昨今深刻な社会問題になっている不景気も、僅かに薄らいだ気になる。無論、いまだそれらは影を顰めてどこかで活動中なわけだが。少なくとも、今の僕らには、確実に関係がなかった。学生の身分というのはこういう点で何かと楽だ。
「でも、『何かめでたい気がする』だけで寒さも吹き飛ぶんですから、すごいことですよね」
 マリアがしみじみと呟くと、「まあなあ」と織田が同調した。
 江神さんは相変わらず口を挟まず落ち着いた足取りで、ゆっくりと道を進んで行く。今歩いている道を真っ直ぐに進んで、左折したら右手側がすぐ神社だ。
 ……それにしても。
「江神さん、また何か難しいこと考えてます?」
 僕が聞くと、江神さんは「ん?」と聞き返した。
「何でそう思うんや」
「そう言われると困りますけど。江神さん、いつも難しいこと考えてはりますから」
「あ、それは私も思います。到底、私たちが考えつかないようなこと」
 マリアも僕の言葉にかぶせて意見を言う。それを聞いた望月と織田が「何やその言い方、俺らが馬鹿みたいやん」と口を尖らせたが、江神さんの頭脳に敵う人がEMCにいないのも事実なので、言及はしてこない。
「別に、小難しいことは考えてへん。むしろ、お前らが考えるよりもっと取り留めのないことや」
「取り留めのないこと、ですか。どっちにしろ、新年に相応しくないですねえ」
「そんなこと言ったら、アリスだって、それにモチさんや信長さんだって、こんな時もミステリのこと考えてるわけですからお互い様ですよ。……こうして元旦にEMCで集まってるのがその証拠」
 確かに。
 江神さんはそんな様子を見ながら僅かに微笑んでいた。口角をちょいと上げただけだったが。江神さんはいつも、こんな風に、とても控えめに、穏やかに笑う。それは例えば、母がお転婆な娘を慈しむかのような。もちろん、そんな笑い方だけではないが、ずっと黙して僕たちがふざけているのを面白く見ている時はまず、真剣に考え込んでいるか、この表情だ。
「あー。また一年が始まってしもたなあ」
「なんやそれ。悔いてるみたいや」
 望月が「悔いてるわけやない、案じてるんや」と返す。
「お前、忘れたわけやないやろ? 就活や。しゅ・う・か・つ。あ、嫌なもん思い出したみたいな顔しよって」
「全くや。思い出させるなそんなん。折角の元旦に」
「アホ。元旦やから、ちゃんと上手く就職できますように、ってお願いするんやないか。何のためにここまで来てんねん。今年も健康な生活を送れますように、なんて初詣で祈らへんわ」
 ここのでこぼこコンビの恒例の漫才は他人から見れば呆れるだけだが、こちらとしては、EMCの活動に影響するのであながち他人事とも言えない。ただ、笑ってしまう。
「私は今年もいい小説に出会えますように、って祈ってますよ。アリスは?」
「俺もまあそんな感じかな。あと、医学書を理解できる脳みそが欲しい」
「それはサンタクロースにたのめや」
 と望月に言われたが、サンタクロースもさすがにこれは無理だと思うのだが。
「江神さんは?」
 江神さんは一拍置いて、
「俺はさっきモチが言ったことかも知れん。今年も健康な生活を送れますように、ってあれや」
 望月が「江神さん、おじいちゃんみたいですよ」と言うのを聞きながら僕は、頭の片隅で、江神さんの家庭環境について思い出していた。江神さんの死期を予言した母。その予言は、いまだ江神さんの呪縛となっている。
 だから、例え何の意味もこめられていない「今年一年健康に過ごせますように」でも、江神さんが言うと、それなりに重大な意味を持つのだ。
 しかし、それを堂々と口にだすわけにもいかない。それは先輩二人もマリアも同じで、誰もそこには触れなかった。禁句というわけでもないが、みんなが避けて通る話題だ。特に、こんなめでたい日には。
「あ、アリス、おみくじ引こうよ」
 マリアが僕のコートの袖を引っ張る。
「ほら。貧乏なアリスも、五十円くらいのはした金、あるでしょう」
 裕福な家で育ったマリアに、思わず「五十円馬鹿にすんなや」と言うところだったが、とにかくそのおみくじを引いてみることにした。望月と織田のコンビも、「お、初詣でおみくじ。らしいやないか」と乗り気だ。今年は就活があるが、大丈夫なのだろうか。
 後輩たちのノリに便乗したのか、江神さんも五十円玉を取り出す。
 マリアは優柔不断らしく、どれも見た目は同じなのに、これでもないあれでもないとたっぷり三分近く、おみくじを引くのに迷っていた。そのくせ、アリスが開けようとすると「待って。一緒に開けましょうよ」と袖をぐいぐいと引っ張る。
 ようやく「よし、これだ!」と決めた時は正直ホッとした。
「せーの、で開けましょう」
 マリアの「せーのっ」という掛け声とともに、五人は一斉におみくじを開く。一番最初に歓声を上げたのは望月だった。
「俺ついてるで! 中吉や!」
 大吉じゃないのか。……という僕の心の声を代弁して、織田が突っ込む。
「それはすごいのか」
「阿呆、いっつもいっつも末吉だった俺にしてみれば格段の昇格や! よっしゃ、絶対に就活上手くいくで。……お前はどうなんや」
「吉」
 織田がひらひらとおみくじを見せる。そしてマリアも、「私も吉でした」とおみくじをみんなに見せる。そして、自然な流れで「アリスは?」と聞かれ、思わず開いたばかりのおみくじを後ろに隠す。
「あれ、アリスもしかして……」
 と、マリアが僅かに笑いながら言うので、ええいもうこうなったらしょうがない! とばかりに自分が引いたおみくじをみんなに見せると、揃いも揃ってみんな目を丸くした。しかも江神さんだけなんだか笑っている。
「アリス、お前……」
 望月と織田が同情の目つきで僕を見る。もしかしてと言っていたくせに驚いていたマリアが一言。
「大凶なんて、アリスのこの一年は厄年かも」
 凶ならまだ笑えた……かも知れない。末吉ならもっとよかった。でも、大凶はないだろう、大凶は。みんなニヤニヤしながら哀れみの目で見ている。
 周りはがやがやしているが、大凶を引いてこんな切ない気持ちになっているのは恐らく僕だけだろう、という気持ちになった。とにかく、大凶、とでかでかと書かれたおみくじの下の文章を見る。まあおおよそ、大凶に相応しい文章がつらつらと述べられていた。半ば意気消沈しながら読んでいると、マリアが「なんて書いてる?」と、好奇心を丸出しにして覗いてきたので、「見るとマリアも大凶になるぞ」と脅したら、本気で嫌なのかそろそろと後退した。
「引いてしもたもんはしゃあない。アリス、きっちり折ってきっちりそこに結んどけ」
 望月に言われずともそうするつもりだ。
 そうして細長くおみくじを折っていると、織田が「そういえば」と言った。
「アリスのおみくじがあまりにインパクト強すぎて忘れとったんやけど、江神さんはどうだったんですか」
 そうだ。忘れていた。僕は江神さんに向き直る。江神さんはまだ笑っていたらしく、顔に微笑をたたえながら「ん?」と聞き返した。
「俺か?……ほれ」
 その瞬間、誰もが「あ」と声を出した。僕も出した。
「……ずるい」
「ずるいって何や、アリス。今年一年の運は、アリスより、ここのメンバーの誰より俺が一番っちゅうことや」
「でも本当にずるいですよ、大吉なんて!」
 マリアも加勢して言う。望月は「ちょっと見せて下さい」と半ば引っ手繰るようにして大吉、と書かれたおみくじを、よーく見てみたり、すかして見てみたりしていたが、織田は「ホンマですか」と溜め息をついている。
「じゃあ、今年、このメンバーの中で一番運が悪いのは僕ってことですか」
「まあ、そう言うなや。俺も結ぶんやから、みんな今のチャラや」
「俺もや」
「そうそう、私も」
 先輩二人とマリアがそう慰めてくれるが、まだぶーぶー言っていたら、視界の端っこに江神さんもみんなと同じようにおみくじを細長く折っているのを見て、にわかに慌てた。
「江神さんは何で折るんですか。折角大吉出たんですから、持って帰ったらええんですよ」
 それを見て、他の三人も僕と同じようなことを言う。
「そうですよ。それ持ってれば今年一年健康に過ごせますよ」
「ホンマですよ。っていうか勿体無いですって。俺なら一生取っておいて自慢するわ」
「性格悪いなお前」
 漫才をしている場合ではない。
 本気で驚き、焦っている僕たちを見てそれが面白かったのか、江神さんは声を出して笑った。
「推理小説研究会員とは思えぬ所業やな。こんなちゃっちいおみくじに左右されてどうするんや。まさか、おみくじの結果一つで今年の運勢が左右されると、ホンマに考えてるわけやないやろ?」
「う……まあ、そうですけど」
 エラリー・クイーンファンの望月は途端に勢いがなくなる。
「それにしても、験担ぎっちゅーもんがあるやないですか」
「俺は、効果がないとはっきりわかっているもんを担ぐ趣味はない。アリスも、そんなに落ち込むなや。気休め程度に考えてればいいんや」
 結局のところ、江神さんにも慰められてしまった。
 すると突然、マリアが手を挙げて、「じゃあこういうのはどうですか?」と提案した。
「有馬君。発言を許可しよう」
 望月が偉そうに言う。
「みんなのおみくじ、五枚とも重ねて折って、そのままあれに結ぶんですよ。どうですか? これで、みんなの運勢も平等、運命共同体です」
 マリアが胸を張って言う。すぐさま「お、それええやん」と織田が同調し、望月も「まあ、ええかな」と言う。江神さんも笑いながら頷いた。
「じゃあここは、運気最低の有栖川有栖君に代表で結んでもらいましょうか」
 からかうように望月が言うと、四枚の紙が僕に預けられた。自分のと重ねて、細長く折る。もう既にみんな折った形跡があったので、多少かさばったが折るのは容易なことで、結ぶ時が一番苦労した。何しろ、五枚重ねなので強度が上がり、なかなか折れてくれない。
「頑張れ、アリス。みんなの今年の運勢を背負ってるぞ」
 とマリアがからかうが、冗談じゃない。今年一年の運勢なんて、僕なんかに任せるからいけない。そんな変なプレッシャーを与えないで欲しい。
 やっとのことで結ぶと、みんなに笑われた。どうやら相当真剣な顔をしていたらしい。
「ま、これで俺たちは平等だな」
「新たな掘り出しもんに出会うのも平等、難しい謎を解くのも平等、っちゅーわけやな」
「あ、じゃあ早速これから、お互いのオススメを教えあいましょうか」
 話が盛り上がったところで、神社の鳥居をくぐって、そこを出た。
「ミステリに限らないでやりましょうよ。ドラマとか、映画とか」
「ええで。紹介する時はその作品のタイトルは勿論、作者名、粗筋、テーマを述べること。……じゃあ、最初は俺からでええか? 時計回りで」
 とすると、次は織田、マリア、江神さん、僕の順だ。
 五人の大群がぺちゃくちゃなにやら小難しい話をしながら――江神さんではないが、結局僕ら全員小難しい話、思想を繰り広げることになってしまった――、ゆっくりと道を歩いた。各々の思想や理論を展開する時、さすがに江神さんの論理はしっかりしていて、ぶれない。論旨が明確で、どれだけ質問や反論を挟んでも、自分の理論を曲げることなく僕らを説き伏せてしまう。我らが部長は安心して信頼できる人であるが、また、こういう面でも偉大な人だった。
「結局、EMCは年が明けても、全く変わらないんですね」
 白熱した討論が繰り広げられてみんな消耗した頃、ぽつりとつぶやくと、マリアが「そうねえ」と笑った。望月と織田は「当たり前や」と何故か胸を張っている。江神さんは「メンバーがメンバーやからな」と笑う。
「……そうですね」
 僕、マリア、望月、織田、そして江神さん。
 今年の運勢を分け合った僕らだからこそ、こんなにも、それは人の活気や熱気なんかじゃなく、温かい気持ちになれるのか。
 まだ、冷たい風は吹き荒れているというのに。


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