愛ならここにある 母が死んだ。 父が死んだ。 私には今、弟がいる。 私には今、弟しかいない。 寂しいと思ったことはある。でもそれはごく普通の感情で、例えばそれは一人暮らしを始める時だったり、ふと一人きりになったと実感する時だったり、様々だ。そう、人間ならば当然のように抱く感情。そもそも、人間とは生まれた時から寂しいのだ。 だからと言って、父が死んだからと言って、春に固執しているわけではない。 自分の中で言い訳をしていた頃は、父が逝ってしまったこと、寂しかったこと、そして春と一緒に過ごす時間が増えたことには何か因果関係があるのだと決め付けていた。しかし、その悲しみも薄れ、父がいないという状況に慣れて尚春と一緒にいたいと思うのは、どうしたものか、上手く説明がつけられなかった。 そして今日も、やっぱり部屋にいるのは春だ。 春の方から私の家に来たのだが、それを当たり前だと思っていて、かつ帰したくないと思っている自分を鑑みると、やっぱり私は春に固執している。どういうわけか。世間から見ると私のような人や、春のような人は「ブラコン」だと言われるのだろう。そうやってゴミみたいに分類されて、妙なレッテルを貼られるのは嫌いだったが、そう言われてもおかしくないほど……いや、むしろそれ以上のもの……だと、自分で気づいているだけに、余計始末が悪い。 どうやら、暇な時は毎日私の所に来ているのを見ると、彼女とか、そういうのはいないようである。私にもいない。だから困ったことはないのだが、しいて言えば困ったことがないのが困ったことなのだ。 「春」 食器を洗い終えると、春に声をかける。春は、私が昼食を食べ、食器を片付けている間、ソファに横になって、私の音楽プレーヤーで音楽を聴いていた。がしかし、声をかけてみると眠っているらしいことがわかった。目を閉じたまま、胸が規則正しく上下している。イヤホンは耳につけたままだ。きっと、まだ軽快な音楽が流れているだろう。 「はる」 今度は呼びかけではない。自分で口にした言葉を、自分で咀嚼し、味わっているような感覚だ。仰向けに寝転んでいる春の顔をみて、ふと、温かい気持ちになる。 そして、穏やかな寝息に、自分も眠りたいという衝動に駆られる。しかし、やっぱりやめたとその考えを放棄する。もう少しだけ、春の寝顔を見ていたかった。 ――春が生まれてきてよかった。 そう言うことは、即ち「母がレイプされてよかった」と言うことと同じだ。 でも、私の胸にはいつもある。春がいてよかった。春がいるから私は、こんな風にして"私"として生きていけるのだ。春がいない日々など考えられない。私たち兄弟は、いつも一緒だったからだ。いつも。いつも。 母だって、生まれてきてよかった、そう言うだけ、許してくれるだろう。母は強いから。レイプ魔の犯人との子供を産むくらい、強い女性だから。 「……兄貴」 「起きたか」 あまり気持ちよさそうに眠っていたので、もう数時間は起きないと踏んでいたのだが。 「夢、見てた」 「……どんな」 「忘れた」 「何だそれは」 春は寝ぼけ眼のまま、うーん、と頭を捻って考えていた。思い出そうとしているらしい。どうやら断片的には覚えているらしく、「兄貴と俺が遊んでて、そう、小さい頃かな。もう帰らないと父さんに怒られるよって兄貴が言うんだ。夕暮れ時だった」脈絡もない言葉を羅列する。しかし、それだけで懐かしく思えた。いくら夢とはいえ、そういうことなら現実にもありそうだったからだ。 「それで、急に兄貴がでっかくなるんだ。うん、今の兄貴のサイズ。気づけば俺もでっかくなってて……」 そこで春は口をつぐんだ。続きを聞きたくて私は「どうした?」と尋ねると、春はあっけらかんとして「忘れた」と言った。 少々落胆する。 「まあ、夢なんてそんなものだろう」 「だよね。夢なんて」 春は眠そうに目を擦ると、もう一眠りしようと考えているのか、再びソファに横になる。かと思うと、急に上半身だけを起こし、床に膝をついていた私と目線を合わせ、真顔で問いかけた。 「兄貴」 「何だ」 「ちゅーしていい?」 「はあ?」 ちゅー? それってまさか、キスのことか?――当たり前のことをいちいち頭の中で考える。そうして、何かの聞き間違いかと思って聞き返そうとするも、「あの」とか「えっと」とか、まるで言葉にならない。 どうやら私は、酷く同様しているらしい。 そんな私の様子を見て、春が笑う。からかわれたのか、と思い、いくらなんでも酷すぎるだろう、と考えて、赤面したまま私は怒りのあまり言葉を失う。 「いや、俺は本気だよ」 「そう言ったって騙されないぞ」 「本当だってば」 「なら、やってみろよ」 春は、許可が下りない限りは何かをしようとはしないだろう。無理矢理、なんて、春が好むわけがない。だから私は、春を負かしてやりたいと思う気持ちと、ほんの少し、期待する気持ちとの両方で、許可してやった。 「いいの?」 「やれるなら」 それじゃあ、という春の声が聞こえて、私はぐいっと顔を引き寄せられた。やや強引な動きに、思わず目を瞑る。 触れる唇は、間違いなく、春のものだ。 軽いキスなのに、時間だけが長く感じられた。 やっと唇を離すと、春が「ね」と笑っていた。春は恐らく、気づいている。私がそれを期待していたことに。私が春自身を、求めていたことに。 「兄貴。好きだよ」 口付けの後に囁かれる言葉は、確実に家族のそれとは違っていた。違っているとはっきり認識した上で、私も笑いながら、返事をする。 「俺も、好きだよ、春」 私の口にする「好き」も、やはり、家族に対する愛情とは異なっていた。 私の春に対する「好き」は、家族愛でも、春しか家族がいないという寂しさや悲しさを埋めるための、一時の愛情ではない。それはとても困ったこと……だったはずだ。 でも、今はもうそんな迷いや不安などどこかに飛んで行ってしまっていた。理由は明解だ。春も同じだと知ったから。 私だけ弟にこんな感情を抱くなど、言語道断である。でも、お互いが想い合っているのなら、話は別だ。全く変わってくる。 「ね、兄貴」 「何だ」 「さっきの夢の続き、教えてあげよっか」 忘れていたんじゃないのか。そう言おうとしたがやめて、「聞かせてもらおうか」と言うと、春は嬉しそうに、 「兄貴と、キスしてた」 と、言った。 私は驚いて瞠目し、次いで、しょうがないなあというように、呆れたように笑った。 ――そして私は、春の愛情を確かめるべく、もう一度、今度は自分から、唇を重ねる。 春が、応えてくれないはずはないのだけれど。 |