brotherhood






 今日、ヒロと喧嘩をした。
 最悪な喧嘩だった。
 それがヒロの本心じゃないことぐらい、わかってる。でも、悔しかったし、恥ずかしかったし、むかついたし、ショックだった。だから、思わず家を飛び出して来ちゃったけど、陽が暮れれば家に帰らざるをえなくなる。夕食の時、顔を合わせるのは嫌だなあ。
 ひょっとしたら、未羽の時より。
 ……気持ち悪いっていうのは、覚悟してたはずなんだ。
 でも、まさか、ヒロに体重ねてたところ見られてたなんて、思ってもみなかった。



「未羽と喧嘩した」
 と、むっつりした表情でヒロは言った。おれは漫画を読む手を止めて、「はあ?」という言葉を飲み込んだ。
「どうせ、ヒロが何かやらかしたんだろ」
 軽い調子で言ってみる。しかし、ヒロの顔に笑みは浮かばない。こりゃ重症だな、と思いながらおれはヒロに少し近付いた。確か、今日は未羽とデートだったはずだ。なのに、なんでこんなになって帰って来てんだろ、こいつ。
「……未羽は」
 おれの問いには答えなかった。ヒロが何かをやらかした……図星なんだろう。
「未羽は、やっぱりトモのことが好きなんだ」
 ――不貞腐れる、という口調なら、まだ許せた。
 でも、それは本気だった。本気でそう思っている口調で、未羽を全く信じていない口調で……例え言葉のあやだったとしても、許せなかった。
「何でそういうこと、言うんだよ」
「俺だって言いたくねえよ」
「だったら、未羽を信じてやれって」
「信じてたよ、でも喧嘩した」
 おれはふう、と溜め息をひとつついた。
 お前、おれに喧嘩売ってるのか? と言いたかった。人の恋人横から奪っておいて、今更そんなことを言うのか。怒って気が立ってるにしても、あんまりだろう。
 もし。
 もし、おれが要一くんと……『そういう関係』になっていなかったら、間違いなくそういい返していたはずだ。今は要一くんがいるから、少しは冷静な気になれる。
 冷静でいるおれを見て、ヒロは眉根を寄せた。
「……トモ」
「なんだよ」
「今彼女いる?」
「……いないけど」
 彼女は、いない。それは確かだ。嘘はついていない。
「じゃあ……恋人は?」
 ヒロは幾分声を低くして、そんなことを言った。
「……な、んだよ。今日のヒロ、何か変だよ。何か……気持ち悪い」
 それは、おれの率直な感想だった。
 ヒロは、そのおれの感想に目を剥いた。表情から、すごく怒っているということは、瞬時にわかった。しかし、何とか取り繕う前に、ヒロは口を開いた。
「男とセックスするトモの方が、気持ち悪ぃよ!」

 一瞬、頭が真っ白にになった。
 理屈ぬきで。

「トモ、要一くんと『そういう関係』なんだろ。気持ち悪いよ。ヤれるなら、誰でもいいのか」
「そんな……」
「プリンのカラメルは我慢するくせに、一丁前に性欲だけは我慢できないのか! 未羽とも、それが目当てで付き合ったのか? 俺、見たし、聞いたよ。トモだって未羽と俺が一緒にいる時に帰ってきて、結局はややこしいことになったんだから、おあいこだろ」
 なあ、とヒロは突き放すような声で、おれに問う。
「確かに要一くん、上手そうだもんな。で、どうだったよ、初めての感想。俺が見たのは何回目か知らないけど、どうせ要一くんが初めての相手なんだろ?……やっぱり体、目当てなんだろ?」
 おれは、口を何度か開閉させたが、結局そこから言葉が出ることはなかった。
 ――もし、要一くんの方こそそんな理由なら、おれは別れるよ。
 そう、言いたかった。つまり、自分は別に体とか、そういう理由で付き合ったわけじゃない……と、ヒロに向かって叫びたかった。
 でも、情事の時を見られた恥ずかしさとショック、自分だけでなく、要一くんまで侮辱されたような怒り、気持ち悪いと言われたことに対する……悔しさ。悲しさ。
 そんな感情がぐちゃぐちゃになって、淀んで、言葉を発することを許さなかった。唇が震えているのがわかる。でも、どうしようもない。否定したいのに、言葉が出てこない。

 ……結局、逃げることしかできなかった。
 涙が零れる瞬間を、弟に見られたくなかったのだ。




 今日、トモと喧嘩した。
 酷いこと、いっぱい言った。でも、トモが家を飛び出してから、急に冷静になって我に返っても、もう遅すぎるわけで。
 すごく後悔した。
 別に、俺はそういう……男とか女とかで、偏見とかはない気でいたのに。つい言葉が出て、一度溢れたら止まらなくて……きっと、トモは未羽の時以上に傷ついた。絶対にそうだ。
 だって、泣きそうな顔してたぜ。
 唇も、握り締めた拳も震えてた。
 でも、でも。
 シャツの襟から僅かに覗く、鬱血の跡を見ると、どうしても抑えきれなくなっちまったんだ。
 それが、男――しかも、要一くんとの情事の印だと知っているが故に、尚更。

 トモに、そんな器用なことができるはずないと、わかっていた。
 体目当てに誰かと付き合うなんてことが、万が一にでもないことも。
 というか、体を重ねる、ということそのものが、どういうものなのかわかっていないような兄だ。でも、何だかイライラした。喧嘩したからだ。
 前……まさに『最中』の時、ドアの前でそれを聞いてしまった時、自分の心の中だけにとどめておこうと思った。
 トモの喘ぎは、女みたいで、でもちゃんとトモの声で……すごく、複雑な気分になった。
「…………ああクソッ」
 取り返しのつかないことをしてしまった。
 恐らく、前のように段々と関係が修復……というのは、今回は無理のような気がしてならなかった。深く溜め息をつく。トモだって、気持ち悪いとか、そういう意識はあったはずで、だからこそそういう言葉には傷つく。
 そんな時、携帯が鳴った。俺は慌てて携帯を手にとり、「もしもしっ」と言った。焦った声になったかもしれない。
『……ヒロ?』
「未羽?」
 意外だった。喧嘩すると頑固、というイメージがあったからだ。
『あの、今日はね、その……ごめん。意地張っちゃって』
「別に、気にしてない。気にはしてない……けど」
 それが発端でこんなことになった訳だから、落ち込んでいないと言えば嘘になる。俺は一瞬の間だけ、そのことを言うべきか言うまいか逡巡した。結果、喧嘩したことだけを言うことにした。
 未羽は、理由を聞いたのは「トモと喧嘩した」『なんで?』と、その一言だけで、その時に何となく笑って誤魔化しておいたら次からは聞いてこなかった。ありがたいことである。
『で、私はどうすればいいの? その喧嘩……私もちょっとは、関係あると思うし』
「いや、でもトモ、もう金輪際俺と話してくれなくなるかも知れない」
『そんなに酷い喧嘩なの? 仲いいのに、珍しいね』
「いや、まあ……生まれてこの方、あんなに酷い言葉をトモに言ったことはなかった、ってほど」
『自業自得』
 その通りだから、反論はしない。
『……私から、トモくんに言ってあげようか? ああ、でも駄目だ。そういうのはちゃんと二人で話し合わなきゃ。私は応援するしかできないよ』
「ん、まあ、頑張ってみるよ」
『早く仲直りしてよ』
 俺はああ、と相槌を打って電話を切った。溜め息をつく。今日で何回目だろう。
 トモとサシで話合える機会なんて、二度と来ないんじゃないかと思った。

 予想に反して、夕食までにはトモは帰ってきた。
 しかし、元気が無いのは誰の目から見ても明らかで、原因をよくわかっているだけに俺は罪悪感にかられた。トモも、当然だが俺と目を合せようとはしない。
 母には、「ちょっと走ってきた」とでも言ったらしく、詮索の言葉はない。しかし、食事に全く手をつけようとはしない母はトモを心配していたが、トモは結局何も食べずに食卓を後にした。
 今回はちょっと難しいぞ、と俺は頭を抱えた。
 前回のトモは怒っていた。その怒りが収まってほとぼりが冷めればもう元通りだ。けれど、今のトモは明らかに落ち込んでいた。何かを怖がっているようにも見えた。そう、俺を。
 このままだと、ずっと気まずそうにして目を合わせてくれないかもしれない。
 ……やっちまったなあ。
 俺は溜め息をついて、きっちり夕食を全部食べ、ついでにトモの分も食べてから自分の部屋に戻った。トモの部屋に行く勇気はない。
 ――初めてだ。
 思えば初めてだった。あんな風に、トモに声を荒げたのは。何か、前と逆だなと思った。でも、いつも悪いのは自分だ。そりゃあ、この前はトモにも責任があったけれど。
 今回は違う。明らかに俺が悪い。トモは相当傷ついただろう。俺は驚いたけど、偏見を持ったりトモへの見方が変わったりはしないと心に決めていた。漏れ聞こえる声を聞きながら。それなのに、気持ち悪いとか……言って。体目当てが云々……俺に何がわかるはずもないのに。
 謝ろう。
 素直に謝って、でも、しばらくはトモの、俺への態度は軟化しないだろう。それでも、謝るのと謝らないのとじゃ大違いだ。
「……トモ、いる?」
 いるに決まっている。夕食を残したまま席を立ち、少しして、がちゃりという、部屋に入る音がした。外へでも行ってない限り、この部屋にトモはいる。
「あの、今日のことで、その……謝りたいんだけど」
 ドアノブを捻って、静かにドアを開ける。廊下で話して、万が一親にでも聞かれてたら最悪だ。
 部屋の中へ一歩踏み出して、トモの姿を探した。布団の中に潜り込んでいる。ドアを閉めると、トモが身じろぎして、起きているんだと気づく。
「トモ、ごめん」
 びくりと一瞬、トモの体が震えた。
「ごめん。ごめん。本当に。俺、別にそういうの、何とも思ってないから。トモがどんな人と付き合ってても、俺、トモを嫌いになったりも、しないし。気持ち悪いっていうあれ、嘘だよ。大嘘。ちょっと、未羽と喧嘩して……俺、ちょっとおかしくなってた」
 酷い弁解の仕方だ。でも本心だ。俺は更に近付く。
「俺、偏見とかしないよ。体目当てとか、トモ、そんな奴じゃないって、俺が一番、わかってるから。……ごめん」
 そっとベッドの傍に屈んで、できるだけトモの耳に届くように、言う。何度かごめん、と繰り返すと、それが形式ばって聞こえてきたので、違う言葉を探すが、やっぱり、溢れんばかりの申し訳なさから、「ごめん」しか言えない。
 トモは始終無言だった。
 時々ぎゅっと布団を掴む。顔は窺い知ることはできないが、手だけが見えている。
 ――やがて、ゆっくりとトモが顔を出した。
「……ヒロ」
 俺は、一言でも聞き漏らすまいと、耳を傾けた。
「あれはお前の本心じゃないって、わかってるよ。でも」
 一旦口をつぐむ。そのまま数秒。
 殊更ゆっくりと、トモは喋る。
「でも、気持ち悪いと思ってるのは、本当だろ?」
「だからっ! 俺はそんな風に、思ってな……」
「だって、だって俺、要一くんと」
「わかってるから。トモ、俺は」
「気持ち悪いよな。わかるよ。わかるよ、俺。俺だって前までは自分がまっとうな奴だと思ってたよ。でも、でも好きなんだ。好きなんだよ、ヒロ。お前が、未羽のこと好きなのと、同じで」
 トモは相当、傷ついている。自嘲気味に呟く様が、俺に余計そう思わせた。
 それでも、だ。
 傷ついてるのはよくわかった。反省する。けど、トモも、もう少し、俺を信じてくれたらいいのに。俺らは血を分けた兄弟なのに。
 ……いや、違う。
 信じられないんだ。
 じゃあ、信じてもらうにはどうすればいい?
「……トモ」
「謝罪ならさっきも聞いた。もういいよ」
「そうじゃない、トモ、俺を信じろよ」
 声に必死さが滲む。未羽の時も、こんなに焦ることなどなかったのに。
 トモは無言だった。俺が信じるに値する男か見極めているのか? いや、違う。迷っているのだろうか。いつものようにまた笑えるのか、計っているのだろうか。そんなんじゃ、トモが俺を認めて、許してくれるのは何年後だ!
「トモ」
 こうなったら、実力行使しかない。
 トモの腕をぐいっと引く。
 そして、トモを引き寄せて、唇を、トモのそれに押し付けた。
 数秒。
 やっと離す。
「これで、わかった? 俺、別に男同士とか、全然気にしないから。要一くん、カッコいいし」
 理由になってない。でも、これで伝わればいいと思った。トモは、唇を離しても尚、唖然としていたが、次第に、体のあちこちから力を抜いたようだった。
 五秒間だけ、目を瞑る。そして開いて、ようやく俺に語りかけた。
「ヒロは、ずるい」
「え?」
「俺も、ヒロみたいになりたかった」
「トモ」
「お前、俺のないものみぃんな持っててさ。その分俺には飛び込みがあるからいいけど、でも、俺もヒロみたいに、自分の思ったこと、ちゃんと言葉にできたり、行動で示せたり、できたらもっともっと楽だったのに」
 それは違う。
 だって、あんな場面で、一方的に責められて、そんなんじゃない、って真っ向から反論できる人なんて、ほとんどいないと思う。
 とか何とか悶々と考えて、でも口に出せないでいると、トモがふっと笑った。
「お前、未羽に怒られるぞ」
「え、今の浮気になる?」
「いや、ならないと思うけど」
「だったらいいじゃん。未羽はそんな心の狭い奴じゃないし」
「そういえばヒロ、未羽と仲直りしたの?」
「おかげさまで」
「そっか」
 トモは安心したように笑った。きっと安心したのは、未羽と俺のことだけじゃない。俺がそういうのに偏見を持ってない、ということにも安堵したはずだ。思い切って謝ってよかった。
「ヒロ。要一くんには敵わないけどさ、お前もカッコいいよ」
 いきなりトモがそんなことを言い出すので、俺は少し戸惑って、「え?」と聞き返した。
 しかしトモは、二度目は言ってやらないぞとばかりに布団にもぐってしまったので、もう一度聞くことは叶わなかった。
「……ヒロ」
「ん?」
「ありがと」
「……ん」

 しばらくして、トモの、安らかな寝息が聞こえてきた。
 俺は、早速未羽に報告しようと、携帯を開く。


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