新しい寮が経ってそろそろ一ヶ月が経つ。
 古くてボロボロで、いかにも何か出そうな雰囲気を纏った"アオタケ"はもうないが、これはこれで新鮮だった。陸上部のための、寮。走が寛政大学に入学し、そしてアオタケに住み始めたことは、陸上部のための寮ができるなんて、思ってもみなかった。夢のまた、夢だったのだ。
 妙な感慨に耽っていると、急に立ち止まった走を訝しく思ったのか、隣を歩いていたハイジも立ち止まり、そして走の視線を追って、納得したようだった。
「随分と立派になったよなあ」
「そうですね。多分、床が抜けることはもうないと思いますよ」
 ハイジは軽く笑って「そうだな」と答える。それからしばらく――いや、たった数分だったのかも知れない――、立ち止まって思い出話に花を咲かせる。あの時はジョージとジョータが床を壊しただの、ニコチャンが吸殻を落として火事になりかけただの、まあそんな味気のない思い出だ。でもそれは、二人にしてみればかけがえのないもの、と言えば陳腐だが、とにかく、大事な大事なものだった。
「あの時はたったの十人だったんですよね」
「俺は、あの十人以外でよかったと思うよ。みんな個性が強いけど、我が強いことはいいことだと思う。もちろん、走も含めてな」
「もちろん、ハイジさんも含めてですよね」
 二人で笑う。
 からかうような口調で言ったが、ハイジも相当個性が強いと思う。それは、ハイジに限っては監督としての資質と言い換えられるかも知れない。資質というか、単に走に合っていた、というだけの話だ。ハイジさんは絶対に、他人を貶めたりしない。辱めたり、理不尽な理由で怒鳴ったり、残酷に選手を切ったりしない。まあ、最後は切る選手がいなかった、ということもあるが。
 だから血の気が多い走も、ハイジには手を挙げずに済んだというわけだが。
「……唯一ハイジさんに欠点があるとすれば、嘘つきなことですよね」
「誰が嘘つきだ」
「だから、ハイジさんですよ」
 ハイジは納得がいかないというように眉根を寄せ、しかし思い当たる節があったのか、食って掛かることはなかった。
「嘘つきがイコールで欠点になるわけじゃないだろう」
 言い方を変えてきたな。走は気づいて笑いを堪えた。
「でも、嘘をつくことはよくないことですよ。……まあ時には、嘘というのは必要ですけど」
 ハイジの嘘のおかげで頂点が見えた――と、そこまで言う気はない。しかし、ハイジの残酷で美しい嘘に救われた部分も、少なからずあるだろう。
 二人は、ゆっくり歩き出す。だんだん旧竹青荘が大きくなって、通り過ぎると、もう見えなくなってしまった。
 そう、通り過ぎてしまえば振り返らない限り後ろは何も見えないし、かと言って今歩いている景色をしっかり見るには、立ち止まるしかない。あの頃、立ち止まる余裕などなく、ただひたすら走り続けていた自分がいて、今、振り返って見て、初めてあの頃は充実していた、楽しかった、と気づく。
「ハイジさん」
 では、ハイジはどうだろう?
「ハイジさんは、あの頃、楽しかったですか?」
 なるべく、普通に聞いてみる。走にとってそれは大きな意味を持つけれど、あえて何気ない世間話を切り出す調子で、尋ねる。
 ハイジは、束の間逡巡していたようだった。いや、ゆっくりと、走が今そうしたように、振り返っているのかも知れない。あの頃を。
「うん」
 やがて、満足げに頷く。
「あの時、あの頃が最高だったな。多分、俺が一番輝いていた時期だ」
「ハイジさん、それじゃあ今が廃れてるみたいじゃないですか。これからも監督として、華々しく名を挙げてくださいよ。全盛期の再来」
 安心した。同時に、嬉しかった。あの、走が体いっぱいで感じた風を、ハイジさんも同じように受け止め、同じように感じていたのだ。その感動を隠すために、ハイジを茶化す。
「それを言うなら走、お前だろ。あくまで選手が主役だ。期待してるぜ」
「望むところですよ」
 走が挑戦的に笑うと、ハイジは「その調子だ」と笑った。
 いつかこの時も思い出になるのだろうが、今はやっぱり、走り抜けるだけで精一杯だ。


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